2017/03/07

第60回お江戸オフ≪深川≫ その2

こちらの続き)


<津波警告の碑(平久橋詰)>

20161210_170110_0011 説明板によると以下のとおり。「寛政3年9月に深川洲崎一帯に高潮が襲来し、多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地とし、東西の端に波除碑を建てた」。石碑はほとんど原形をとどめていません。


<洲崎神社>

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 このあたりは元禄時代の埋立てによってできた地で、その海岸の突端に弁天社が祀られたのがこの神社の始まり。当時は富士山、房総、筑波山が見える景勝地で、料亭が並ぶ行楽地でした。 右の写真は、上記の波除碑の片われ。

 この洲崎弁天の北側一帯に幕府が定めた材木置場があり、堀割に囲まれた造成地には材木問屋の邸宅や庭園が並んでいました。これが木場という地名の由来です。下の浮世絵は、広重の江戸百「深川木場」と「深川洲崎十万坪」。深川十万坪は享保年間に埋立てられた新田で、木場の東側に当たります。

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 その後1969年に貯木場は荒川の河口に設けられた新木場に移転し、木場の地名だけが残されました。跡地は埋立てられて木場公園などになっています。一方、洲崎地区には明治時代に根津より遊郭が移され、昭和半ばまで吉原と並ぶ遊郭として賑わっていたことを書き加えておきます。

 かつての堀割の多くは埋め立てられましたが、深川地区は現在も大横川、古石場川など川に囲まれて橋の多い土地で、昔の面影がそこはかとなく残っているような気がしました。

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<繁栄稲荷>

20161210_170110_0004 大丸の創業者である呉服商・下村彦右衛門正啓は寛保3年(1743)に江戸店を開店後、宝暦7年から木場に別荘を所有していました。その一画に伏見稲荷を勧請して祀り、繁栄稲荷と称したのがこの神社の起源です。明治末に一旦閉鎖されましたが、昭和35年に社殿を当地に戻して再建されました。


 この後、地下鉄で内幸町に出て、「近どう」にて恒例のもんじゃ忘年会となりました。楽しく飲み食いし、おおいに盛り上がったことは言うまでもありません。東海道を歩き始めて、大勢で宴会をする機会が少なくなってしまい残念ですが、東海道踏破の目標のためには仕方ないですね。今後もたまにはこうして都内で宴会をする機会を設けたいと思いました。

 2ヵ月以上前の記録なので簡単に終わらせるつもりでしたが、書き始めたら深川の歴史が興味深くかなり長い記事になりました。やっぱり江戸は面白い!

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2017/02/28

第60回お江戸オフ≪深川≫ その1

 まもなく3月になるというのに、2016年の記録が終わっていません。

 年末のオフは東海道には出かけず、東京を軽く歩いた後、恒例のもんじゃ忘年会になりました。ひさびさにお江戸オフの復活です。2016年12月10日、北風が強く寒い1日でした。

 ちなみに、このブログに第59回オフの記録がないのは、私は途中参加で記事を書いていないため。「お江戸オフ記録帳」のこちらの記事に記録してあります。

 東京メトロ東西線「門前仲町」14時集合→富岡八幡宮→三十三間堂跡碑→深川不動尊→黒船稲荷(鶴屋南北住居跡)→住吉神社→津波警告の碑(平久橋詰)→(深川ギャザリアでお茶)→洲崎神社→繁栄稲荷→「木場」駅⇒「内幸町」駅→忘年会:「近どう 新橋店」17時~
(このコースは元々、雨天で流れた新年会オフ用のもの)

Map
 

<富岡八幡宮>

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 お江戸オフで富岡八幡宮を訪ねたのは第1回第37回に続いて3回目。深川七福神めぐりでも参拝しているので、もうおなじみの場所です。正面の鳥居と伊能忠敬の像の写真はブログ初掲載。江戸時代の測量家・伊能忠敬は深川黒江町(現・門前仲町)に住み、測量旅行の旅立ちの際には必ず富岡八幡を参拝していたことから、平成13年にこの像が建てられました。

20161210_170110_0017 富岡八幡の境内にある八幡橋。元々、楓川の弾正橋として架けられた国産第一号の都内最古の鉄橋。弾正橋が廃橋となり、ここに移設されました。




<三十三間堂跡碑>

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 江戸時代、富岡八幡宮の東側に、京都の三十三間堂を模した三十三間堂がありました(古地図参照)。規模も本家と同じ、南北66間(約120m)、東西4間(約7m)あり、通し矢が行なわれました。明治初期に廃寺となり破却。右の浮世絵は、広重「江戸百 深川三十三間堂」。

 跡地の碑がなかなか見つからずにうろうろしました。


<深川不動尊>

20161210_170110_0016 何度も訪れているのでウンチクは割愛。






<黒船稲荷(鶴屋南北住居跡)>

20161210_170110_0014 黒船稲荷は、浅草黒船町から移り住んだ住民によって建立された神社。『東海道四谷怪談』などの作者・四世鶴屋南北は晩年、黒船稲荷の境内に居を構え、75歳でこの場所にて亡くなりました。古地図を見ると、境内はかなり広かったようです。




<住吉神社>

20161210_170110_0013_3 江戸時代、この地の南方は海浜で、享保年間に佃島漁民に網干場の土地が与えられ深川佃町と呼ばれました。佃島の住吉神社より分霊して建てられたのがこの住吉神社です。


つづく

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2017/02/04

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その3

こちらの続き)

 東戸塚から帰るゆれいさんと別れて、三婆は先を急ぎました。すでに4時を過ぎていましたが、この日のゴール戸塚まで歩かなければなりません。福寿観音(左下)を通りすぎ、品濃坂を下りきって歩道橋(中央)を渡り、旧道(右下)に入る頃には日没が迫ってきました。

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 iphoneに収まっている次の写真はプテラとミニリュウ(笑)。小さな川のそばの住宅街を歩いている途中、レアキャラを捕まえて盛り上がったっけ。赤関橋(左下)を渡る頃には日が落ちて月が出ました。その後は往来の激しい国道一号線をひたすら進むのみ。

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 不動坂(左下)の交差点の近くに神奈川名木百選の「益田家のモチの木」があります。暗くて確認できなかったけれど、たぶんこの木(右下)。この付近には護良親王の首洗い井戸があるというので探してみましたが、見つかりませんでした。暗くなっても歩くことはできるけれど、史跡見物は明るいうちじゃない駄目ですね。

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 いったん国道を離れ、ふたたび戻るとまもなく戸塚宿に入ります。江戸方見付跡、一里塚跡(日本橋より10里)があり、柏尾川に架かる吉田大橋を渡って少し歩くと戸塚駅です。この辺りのことは次回のオフの記事にも書く予定。通りすがりの「はなの舞」で10里越えの祝宴となりました。

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 Googleマップによる実測では、三条大橋まで513キロ中、約43キロ歩きました。これからはこの数字を追っていきます。この日ののべ歩数24453歩。上がった階数21階。

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2017/01/31

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その2 権太坂

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 権太坂といえば、箱根駅伝の往路2区の難所で選手があえぎあえぎ走る姿が目に浮かびますが、駅伝のコースは国道1号で旧東海道とは別の道です。このユニークな名称は、旅人が耳の遠い老人に坂の名前を聞いたところ、自分の名前を聞かれたと勘違いした老人が「権太」と答えたことに由来するとか、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名に由来するとか、複数の説があります。

 ごく普通の住宅街を抜けて、湾曲した狭い上り坂がしばらく続きます。勾配はさほど急ではないけれど、来た道を振り返るとだいぶ上ってきたことがわかりました(右下)。

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 横浜横須賀道路に架かる橋(左下)を渡った先に、権太坂の標石(右下)があります。この辺りは平坦な尾根道で高校と小学校が並んでいます。

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 さらに行くと武蔵国と相模国の国境に出て、旧東海道は境木地蔵まで国境と重なっています。先に進む前に、逆方向に少し離れたところにある投込塚(左下)に寄りました。江戸時代、難所の権太坂で行き倒れた旅人や馬をこの辺りに葬ったようで、昭和の宅地造成の際、骨が発掘されたとのこと。旧東海道に戻って進むと、趣きがある若林家(右下)の家屋が見えてきます。ここにはかつて牡丹餅が名物の立場茶屋がありました。立場(たてば)とは街道沿いの休憩所のこと。

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 若林家の先には境木地蔵があり、境内には武蔵と相模の国境と定められた楠の木が立っています。境木はこの辺りの地名にもなっています。

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 境木地蔵の前から焼餅坂(左下)を下りました。焼餅は立場茶屋の牡丹餅に由来。その先は品濃坂となり、まもなく品濃一里塚跡(日本橋から9里)があります。切通しの坂道の両側に小高い塚がかろうじて残っており、かつての東海道を彷彿させる道筋でした。

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 けれども、旧街道の風情にひたる間もなく、すぐ先には高層マンション群が広がり東戸塚駅に繋がっています。その一角のイオンのフードコートにて一服しました。

つづく


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2017/01/26

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その1

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  広重「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷(新町橋)」

 2016年11月21日。この日は保土ヶ谷駅集合でしたが、私は少し手前の相鉄線「天王町」駅から歩いて、歩いてない部分を多少補いました。

相鉄「天王町」駅→JR「保土ヶ谷」駅11:30集合→(権太坂)→休憩「ケンタッキー 東戸塚イオン」→宴会:戸塚「はなの舞」→戸塚駅

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 天王町駅から旧東海道を少し戻って橘樹神社からスタート。歩き始めるとまもなく帷子(かたびら)橋(左上)を渡りますが、この橋こそ広重の浮世絵で描かれた新町橋の現在の姿で、昭和39年に帷子川が付け替えられるまでは今の駅前公園側にありました。

20161112_1751_2 保土ヶ谷駅で集合後、駅前商店街を進みましたが、保土ヶ谷宿もご多分にもれず当時の面影はまったくありません。何の変哲もない道路に○○跡の立て看板があるのみ。
(左から順に)
 助郷会所跡
 問屋場跡
 高札場跡
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 さらに進むと、ようやく江戸時代のものを発見しました。左下は金沢横町の道標4基。この場所は金沢・浦賀への追分に当たります。右下は本陣跡に残る本陣門。保土ヶ谷宿の本陣は北条家の家臣苅部家の子孫が代々務めました。

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 本陣の付近には3軒の脇本陣がありましたが、いずれも看板のみ。旅籠屋本金子屋跡の家屋はいかにも昔の旅籠屋風ですが、これは明治の建築です。

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 帷子川沿いに出たあたりに保土ヶ谷の一里塚(日本橋より8里)と上方見付の跡地があります。宿場の出入口には見付という土手のような構造物が設けられていて、江戸寄りを江戸見付、京寄りを上方見付といいました。右下は川の対岸に見える外川神社。

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 樹源寺、稲荷神社を通り過ぎ、いよいよ権太坂を上ります。

つづく

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