2016/11/10

第3回 東海道踏破オフ≪蒲田~川崎~新子安≫ その2

こちらの続き)

 短い休憩後、ピッチを上げて先を急ぎました。

Img_1484  川崎宿を出てまもなく京急八丁畷駅の手前に芭蕉句碑があります。元禄7年(1694)、芭蕉が故郷伊賀への帰途、見送りの門人と別れた場所。別れを惜しんで、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句を詠みました。

Img_1485 右の写真は、八丁畷駅の裏にある人骨慰霊碑。江戸時代にこの辺りで人骨が多数出土したため、建てられた慰霊碑です。八丁畷とは長い直線道路を意味しています。


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Img_1489 さらに、熊野神社、市場村一里塚を通りすぎ、鶴見川橋を渡った頃がちょうど日没でした。ゴールまであと4キロ程。急げ急げ。



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 橋を渡ってすぐ鶴見橋関門旧跡碑があります。生麦事件(後述)後に川崎宿と保土ヶ谷宿の間に20ヶ所設けられた見張り番所の一つ。真ん中の写真は、咳の特効薬「苦楽丸」で知られた鶴居堂跡。鶴見の商店街に入った頃には薄暗くなってきました。

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 JR鶴見線の国道駅のガードをくぐると、生麦の魚河岸通りに入ります。シャッターが下りた魚屋さんの店舗が並ぶ薄暗い道筋を行くおばさんたち(笑)。奇祭「蛇も蚊も祭り」が行なわれる動念稲荷の鳥居がちょっと不気味に感じられました。

 生麦という地名は、徳川二代将軍秀忠の行列がこの地を通過する際、道がぬかるんで通れなかったので、村人たちが街道脇の生麦を刈り取って道に敷いて通らせたことに由来する、とwikipediaには書いてあります。秀忠が生麦という地名を与え、村人に漁業を営む権利を与えたとのこと。いやいや、秀忠ではなく家康の入国時だ、とか、この地で取れた生貝をむき身にしたから「生むき」になった、とか、諸説あって真相はわかりませんが、興味深いので書いておきます。生麦の地にキリンビール工場があるのも面白い!

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 生麦といえば、生麦事件。幕末の文久2年(1862)、薩摩藩の島津久光の行列の前を騎乗の英国人リチャードソン他3名が横切ろうとしたところ、薩摩藩士に切りつけられ死傷した事件です。これがきっかけとなり薩英戦争が始まり、敗北した薩摩はやがて長州と同盟を結び、倒幕につき進んでいきました。現場に説明板があり、少し先に生麦事件碑が建っています(現在、横浜環状道路工事中のため、移設中)。

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 キリンビール工場の一角にある「SVB YOKOHAMA」に到着。予約の18時に無事間に合いました。ビールもお料理も美味しく、不便な場所にあるのに満席なのが納得できるビアホールでした。

 食後、さらに新子安駅まで1キロ弱歩いて解散となりました。のべ歩数、24155歩。日本橋から約26.5キロ、東海道の5.4%完了。東海道歩きの面白さが少しずつ増してきました。

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2016/10/31

第3回 東海道踏破オフ≪蒲田~川崎~新子安≫ その1

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   広重「東海道五拾三次之内 川崎(六郷渡舟)」

 2016年10月15日。台風と残暑の9月が終わると、いつの間にか季節が進んで秋になっていました。とはいえ、あいかわらず気温の変動が大きく、だいぶ秋めいたかと思えば、また夏日がやってくる落ち着かない日々。この日も爽やかな秋晴れというには気温が高く、日傘をさしてのスタートとなりました。

14:00京急蒲田駅集合→川崎宿→(休憩:川崎「カフェベローチェ」)→18:00宴会「SVB YOKOHAMA」キリンビール工場内 →新子安駅解散

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 だだっ広く殺風景な第一京浜(左の写真)に旧東海道の面影を求めることはできませんが、道路に面した熊野神社(中央)や六郷神社(右)などの存在がかろうじて旧東海道であることを教えてくれます。今回は10キロ程歩く予定で時間に余裕がなかったため、参拝や寄り道はほとんどせずに先を急ぎました。道を間違えないようにしっかりチェックしながら。

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 都県境の新六郷橋を渡ると神奈川県川崎市に入ります。広重の浮世絵はこの場所を描いたもの。東海道の制定前からこの川には何度も橋が架けられたけれども、洪水のたびに流されてしまい、元禄以降は渡し船に切り替えられたそうです。

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 新六郷橋を渡り第一京浜の下をくぐって脇道に入ると、旧東海道の川崎宿に入ります。川崎宿は何も残っておらず、ただ○○跡解説板が点在するのみ。でも、当時と変わらぬ湾曲した片側一車線の狭い道筋が残っていることは幸いです。下の画像は、かわさき宿交流館でいただいた川崎宿マップ。

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(左から順に)
①六郷の渡し跡
②奈良茶飯が名物の「万年屋」があった万年横丁と
 川崎大師に通じる大師道の分岐点
③田中本陣跡
④中の本陣跡

つづく

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2016/09/14

第2回 東海道踏破オフ≪品川~蒲田≫

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    広重「東海道五拾三次之内 品川(日之出)」

 2016年9月3日。9月になれば少しは暑さが落ち着くかと思いきや、まだまだ暑い。雨の心配をしていたのに日差しが強くて、晴雨兼用傘を日傘にして歩き始めました。

15:00JR品川駅集合→品川宿→(休憩:大森海岸「UCCカフェ」)→京急蒲田→18:00宴会「キリンシティ」

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 品川駅から第一京浜を南下してまもなく、八ツ山橋の交差点から左の脇道に入ると、旧東海道品川宿の道筋が始まります。上の浮世絵の右側の崖が八ツ山。江戸時代の東海道は海沿いの道だったことがよくわかります。

 品川宿については、お江戸オフで歩いた時に詳しく書いているので、その記事をリンクしておきます。この時は大森駅から歩いたので、今回とは逆に鈴が森方面からの記録になっています。また、今年のお正月の東海七福神めぐりでもこの界隈を歩いているので、そちらもあわせて記しておきます。

Img_1398品川宿
鈴が森~鮫洲
龍馬と品川
南品川
北品川
東海七福神めぐり

 というわけで、品川宿についてはもう書き尽くしたという思いなので、今回はお気軽に歩いただけ。写真もあまり撮っていません。要は手抜きです。でも、歩いた道の写真はもっと残しておきたいと今になって思っています。

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本陣跡、品川寺、鈴が森刑場跡

 旧東海道の道筋は鈴が森の先で第一京浜に合流し、後は蒲田までひたすら第一京浜を進みます。と思いこんで歩きましたが、なんてこった、途中の一部は脇道に入らなければいけなかったのです。2回目にしてもう道を間違えました。第一京浜の写真が1枚もないし、また大森に行ってこようか。教訓:道の確認は念には念を入れよ。

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磐井神社、大森神社、貴菅神社

 貴菅神社は5年前の第一京浜拡幅の際、現在地に移動したとのこと。大正時代に第一京浜が造られた時に旧地から移転して以来2度目。現在、この神社の先から蒲田まで第一京浜の拡幅工事が行なわれています。

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 蒲田梅屋敷公園。江戸時代、和中散(道中の常備薬)を売っていた山本家が屋敷内に梅の木などを植えて茶屋を開いたことが起源。梅の名所として賑わい、将軍やシーボルトも立ち寄りました。後に明治天皇が9回行幸しています。日本橋から三里十八丁と書いた道標が復元されていました。1里=36町=約3.9キロなので、約13.7キロ。

Img_1411 梅屋敷から500m程先の京急蒲田駅が今回のゴール。ということは、のべ14.2キロ程度ですね。15キロは歩いたと思っていたのに。東海道の2.9%完了。私たちの行く道ははてしなく遠い。

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2016/09/06

第1回 東海道踏破オフ≪日本橋~品川≫

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     広重「東海道五拾三次之内 日本橋(朝之景)」

 3ヵ月ぶりの更新。前の記事のお伊勢参りから4ヵ月が経過しました。リオ五輪とポケモンGOと台風の夏が過ぎ、あっという間に9月です。夏休みらしいイベントもなく、のんべんだらりと過ごした2016夏でしたが、一大チャレンジが始まったことだけは記録しておかなければなりません。

 2016年7月2日。お江戸オフ通算60回の還暦記念に(?)、一行は京を目指して日本橋を旅立ちました。新企画「東海道踏破オフ」の始まりです。旧東海道のべ492.1キロを歩くんですよ。そりゃあ、無理でしょう、って思いますよね。私も思いました。いや、今もかすかに思っています。でも歩き始めたからには、なんとか体裁を整えて(笑)ゴールの三条大橋に立ちたい! チームお江戸として襷をつないでいけば、きっと達成できる! 

15:30日本橋三越集合→福徳神社→日本橋→(休憩:大門「上島珈琲」)→品川→18:00宴会「塚田牧場」


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 この酔狂な企画をよりにもよって夏に始めた酔狂な私たち。多少は暑さがやわらぐ3時半に集合して、まず福徳神社にお参りし「東海道を無事に歩けますように」と手を合わせました。コレド室町の一角に真新しい社殿が建つこの神社は平安時代からこの地に鎮座しているらしい。参拝後、いよいよ日本橋を出発! ビルの電光温度計は32度を示していました。

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 さぞや照り返しがきついだろうと覚悟していましたが、日本橋から銀座、新橋に至る中央通りはビルの谷間になっていて思ったほど暑くはなく幸いでした。この通りはご多分にもれず、ビルの解体、新築が進んでおり、かつての面影が少しずつなくなっていきます。それを残念に思う私も、川に架かる京橋(左上は往時の欄干)や新橋を知らず、さらに昔の東海道の時代を想像しても実感がわきません。

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 この日直進した国道15号は、日本橋から新橋の交差点までを中央通り、その先、横浜市神奈川区までを第一京浜と呼びます。それにしても、日本橋、京橋跡、新橋跡(左上)、金杉橋(右上)の頭上を首都高が走っているのはなんとも邪魔ですね。4回続けてその下をくぐって、つくづく感じました。

Img_1275 高輪大木戸跡。ここから江戸の外に踏み出します。といっても、まだ墨引内、朱引内なので江戸の管轄。

 ここから少し歩いた品川駅近くの宴会会場がこの日のゴールでした。日本橋から約7キロ。暑い中、ビールを目指して頑張って歩きました。東海道の1.4%完了(爆)。単純計算であと70回は歩かないと京都に到達できません。しかも、歩く場所はどんどん遠くなる……。でも、とにかく歩き出したことが肝心! 先の読めない平成版東海道中膝栗毛にご期待ください。

 今回歩いた道の多くは今までのお江戸オフで歩いているので、参考までにそのときの記事をご紹介しておきます。

日本橋

新橋~泉岳寺

高輪大木戸跡

三田

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2016/06/09

お伊勢参り(その7) 名古屋城と徳川園

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 「尾張名古屋は城でもつ」というフレーズにも謳われ、金のシャチホコで有名な名古屋城。徳川家康が天下普請を命じて築城し、慶長17年(1612)に完成しました。家康の9男の義直が初代藩主として入り、江戸時代を通じて御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄えました。

 その初代天守閣や本丸などほとんどの建物は昭和20年の空襲で焼失したことを知ってびっくりしました。せっかく昭和まで残っていたのに、残念です。現在の天守は昭和31年に鉄筋コンクリートにて再建されたもの。
 
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 平成21年(2009)から本丸御殿の復元工事が始まり、工事が完了した2/3程の部分が公開されています。完成は2018年の予定。豊富な資料が残されており、忠実に再現されているそうです。

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 名古屋城を後にし、バスで徳川園まで移動しました。徳川園は、尾張藩2代藩主・光友が隠居所として屋敷を造営したことを起源とし、明治22年(1889)からは尾張徳川家の邸宅となった場所です。左上の黒門はその邸宅の遺構。ほとんどの建物は空襲で焼失してしまい、平成13年から日本庭園として再整備されて、平成16年から公開されています。

 徳川園に隣接する徳川美術館には、尾張徳川家に伝えられた数々の重宝が展示されています。浮世絵展が開催されていましたが、旅行3日目の疲れが出て集中力なくざっと回っただけでした。この日ののべ歩数:22338歩。気温が高く、日差しも強くて、ぐったりくたびれました。

Img_1229_3 帰りの新幹線の車窓から見た富士山のシルエット。6時半過ぎに通過したので、ぎりぎりで見ることができました。

 この旅行の後、サミットの行事として各国首脳が伊勢神宮を参拝したため、メディアで伊勢神宮が取り上げられることが多く、興味深く見聞きしました。そんなタイミングでお伊勢参りができてよかったです。さて、次の新しい社殿を参拝することができるかどうか……天照大神のみぞ知る、ですね。

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