2017/06/15

第6回 東海道踏破オフ≪箱根越え≫ その2

こちらの続き)

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 2017年4月15日、ついに箱根越えの日がきた。今までさまざまなシチュエーションで何度となく箱根に行きましたが、まさかこの私がこの歳で箱根湯本から芦ノ湖まで歩くことになろうとは。平地ならともかく、アップダウンに弱くて山登りは苦手なのに。ま、旧東海道が箱根を通るのだから仕方ない。「歩けるところまで歩いて、ダメならバスを利用しよう」とバス停を下調べして、いささか弱腰で当日を迎えました。

 そうそう、この日の朝、総武線で人身事故があってLeafさんがロマンスカーに間に合わず、東海道線で迂回して途中合流を余儀なくされました。初っ端からアクシデント発生でひやひやしましたが、大きな変更なく全員で歩くことができて何よりでした。

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 箱根湯本駅でぶんぶんさん、くっきもさんと落ち合って、いざ出発! キャリーサービスを利用して、不要な荷物は宿送りにして身軽になりました。まず早川に沿って三枚橋まで歩き、旧東海道に出ます。

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 早雲寺も正眼寺もしだれ桜が美しい。桜を見るとテンションが上がります。まだ普通の舗装道路なので緊張感もなく浮かれ気分でした。思ったより気温が高くて暑いのが不安材料。

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 そして、いよいよ石畳の始まり。箱根の旧東海道は雨や雪が降るとぬかるんで旅人が歩きにくかったため、江戸初期に幕府が石畳を敷かせました。現在もその一部が残っているのです。最初は旧道らしい風情があって心が浮き立ちましたよ、最初だけね。石畳の道は凸凹していて足元が安定せず歩きにくいことこの上なし。このあたりで体調不良のゆれいさんはバスに乗り、遅れてやってきたLeafさんと合流しました。

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 須雲川を渡るあたりまではハイキング気分で歩きました。森林浴が気持ちいいい。この後、須雲川探勝歩道に入ってしまったので、少し東海道から外れたようです。

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 石段が始まりました。割石坂から先はほとんど石段、と言ったら大げさですが、記憶の中ではそんな感じです。この辺でくっきもさんにストックをお借りしました。なんと、貸出用のストックを2本持参して参加してくださったのです。ありがたやありがたや。このストックがなければ、私は途中でリタイアしていたでしょう。ストックを使って歩くのは初めてでしたが、不安定な足元を支え、腕の力も利用して登れるので、心身の負担がだいぶ軽減しました。くっきもさん、本当にありがとうございました。

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 割石坂、大沢坂を上ると畑宿の集落に入ります。畑宿は箱根越えの中間地点の宿として栄え、江戸時代は茶屋が軒を連ねていました。箱根寄木細工の発祥地でもあり、今も寄木細工の工房や土産屋が複数あります。

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 おそばの桔梗屋さんで昼食。冷えた麺を粘り気の多いとろろにつけて美味しくいただき、元気を回復しました。総勢7名の団体なのにタイミングよく待たずに座れてよかった!

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 桔梗屋さんから程近く、集落のはずれに畑宿の一里塚(日本橋から23里)があります。塚がそのままの形で残っています。右の写真は一里塚の先から撮ったもの。そしてまた石畳が続きます。

(つづく)

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2017/06/08

第6回 東海道踏破オフ≪箱根越え≫ その1

 またまた更新が途絶えていました。先月、パソコンを買い替えてWindows10に移行したため、新しい環境になじめず、重い腰がますます重くなっていました。iPhone7からGoogleフォトにアップロードした写真を新しいパソコンにダウンロードする、それだけのことで躓きます。

 言い訳はほどほどにして本題に入りましょう。4月に箱根越えをしたときの記念すべき記録です。

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    広重「東海道五拾三次之内 箱根(湖水図)」

・4月15日(土)

   新宿 8:30(はこね71号)
   ↓
   箱根湯本 9:53

   箱根湯本→元箱根

   宿泊:「夕霧荘」

・4月16日(日)

   元箱根→三島
   
   三島 17:20(こだま664号)
   ↓
   東京 18:16

 「箱根越えのお泊りオフは季節のよいときに行きましょう」ということで、藤沢から先を飛ばして箱根に行ってきました。途中は後日ちゃんと繋ぎます。天候の変わりやすい季節で天気予報に一喜一憂しながら当日を迎えましたが、ほとんど雨に降られず、桜と富士山を愛でながら峠越えができました。

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 2017年4月16日の湖水図。広重の浮世絵にも芦ノ湖の左奥にうっすら白い富士山が描かれていますが、この日も白い富士山が見えました。

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 浮世絵の右下に坂を下る大名行列の菅笠が見えます。この坂は東海道が芦ノ湖に差し掛かる最後の下り坂「権現坂」。そして、こちらが現在の権現坂を下るメンバー一行です。このあたりで雨がポツポツ落ちてきたので、見晴らしはよくないけれど、芦ノ湖の湖面が見えています。

 実は、体力脚力に自信のない私は1日目だけ旧東海道を歩いて、2日目は別行動でバスを利用しながら三島に出ました。そのあたりの詳しい行程は次回以降の記事で。

(つづく)

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2017/04/20

第5回 東海道踏破オフ≪戸塚~藤沢≫ その2

こちらの続き)

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 戸塚宿を出てまもなく、大坂というなだらかな坂道に入ります。江戸時代はもっと急な坂で、坂の上から見晴らしがよかったらしい。この大坂には昔の松並木の一部が残されており、旧東海道の面影をほんの少ししのぶことができます。ほかに古いものといえば、庚申塔くらい(左下)。また、少し先にお軽勘平道行碑(右下)があります。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の名場面にちなんで建てられたもの。

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 さらに進むと右手前方に富士山が見えました。どんな時でも富士山が見えるとテンションが上がりますが、江戸時代の旅人もきっと同じ思いだったでしょうね。まもなく原宿の一里塚跡(右下)。日本橋より11里目。塚の付近に立場茶屋があったので、原宿と呼ばれるようになったそうな。我々も現代版茶屋のマックで休憩しました。

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 影取町の名残りの松(左下)を通りすぎ、影取の地名の由来となった池がある諏訪神社(右下)に手を合わせて先を急ぎました。

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 横浜市戸塚区から藤沢市に入ってまもなく、旧東海道松並木跡碑(左下)が建っています。その先から始まる遊行寺坂(別名、道場坂)の途中に遊行寺の一里塚(中)(江戸から12里目)と藤沢宿の江戸方見付跡(右下)があります。遊行寺坂は箱根駅伝の中継でお馴染みですね。

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 正式名称、清浄光寺(しょうじょうこうじ)は時宗総本山。今では通称の遊行寺のほうが知られています。時宗宗祖の一遍上人は、「南無阿弥陀仏」の念仏を集団で踊りながら唱和する踊り念仏によって極楽往生に至れる、と大衆に説いて諸国を旅したので、遊行上人と呼ばれました。初代の一遍から4代目に当たる呑海が1325年に清浄光寺を開山したと言われています。

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Img_1823 夕暮れ時で広々とした境内にはほとんど人影もなく、樹齢700年といわれる大銀杏が静かに堂々と枝を広げていました。富士山のシルエットが夕焼けに浮かんで美しかった。

 遊行寺の門前にある「ふじさわ宿交流館」という資料館は残念ながらすでに閉館していました。境川に架かる藤沢橋の近くには江の島弁財天道標や藤沢宿の案内板がありましたが、辺りはすでに薄暗く、この日の東海道歩きはここで断念しました。次回は交流館見学から始めることにします。

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 この後、JR藤沢駅まで歩いて、さいか屋内の居酒屋で乾杯しました。三条大橋まで513キロ中、51キロ踏破。ようやく1割歩いたことになります。先は長いけれど、少しずつ進んでいることは確か(笑)。この日の歩数はiPhoneの機種変更で不明ですが、2万歩は超えたようです。


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第5回 東海道踏破オフ≪戸塚~藤沢≫ その1

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   広重「東海道五拾三次之内 戸塚(元町別道)」

 先週末、箱根越えをしてきました。その前にこの第5回の記事を仕上げたかったのに、まだ後編の途中を執筆中。とりあえず前編をアップして弾みをつけます。

 2017年1月21日。
JR戸塚駅 13:30集合→お茶:原宿「マクドナルド」→宴会:藤沢さいか屋「花鳥風月」

20161112_2066 この日の記録に入る前に、広重の浮世絵「戸塚」について説明しておきます。浮世絵に描かれた橋は柏尾川に架かる吉田大橋。これは前回、戸塚駅に着く前に渡った右の橋です。タイトルの「元町別道」とは、橋のたもとから分岐していた鎌倉への道のこと。浮世絵に描かれた道標には「左かまくら道」と書いてあります。

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 この日のスタートは戸塚駅。まず、JR東海道線上の歩行者用デッキを越えます。かつてここには「開かずの踏切」として知られる大踏切がありましたが、2014年にこのデッキが完成し、翌15年には地下車道が開通しました。デッキの下に東海道の説明板が設置されています。

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 線路を越えるとまもなく「内田本陣」「脇本陣」「澤邊本陣」の跡地が続き、戸塚宿の中心部に入ります。戸塚宿は江戸から10里にあたり、1泊目の旅人や鎌倉、江ノ島の参詣客で賑わいました。『東海道中膝栗毛』の弥次・喜多も戸塚に泊っています。

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 八坂神社と富塚八幡宮。富塚(とみづか)八幡は戸塚の総鎮守で、境内に富属彦命(とつぎひこのみこと)の古墳があると伝えられ、これを「富塚」と呼んだことが「戸塚」の地名の由来とされています(別説あり)。

Img_1796 上方見付跡。江戸方見付から約2.2キロの距離。江戸時代と同じように、京に向かって左に松、右に楓の木が植えられています。


つづく


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2017/03/07

第60回お江戸オフ≪深川≫ その2

こちらの続き)


<津波警告の碑(平久橋詰)>

20161210_170110_0011 説明板によると以下のとおり。「寛政3年9月に深川洲崎一帯に高潮が襲来し、多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地とし、東西の端に波除碑を建てた」。石碑はほとんど原形をとどめていません。


<洲崎神社>

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 このあたりは元禄時代の埋立てによってできた地で、その海岸の突端に弁天社が祀られたのがこの神社の始まり。当時は富士山、房総、筑波山が見える景勝地で、料亭が並ぶ行楽地でした。 右の写真は、上記の波除碑の片われ。

 この洲崎弁天の北側一帯に幕府が定めた材木置場があり、堀割に囲まれた造成地には材木問屋の邸宅や庭園が並んでいました。これが木場という地名の由来です。下の浮世絵は、広重の江戸百「深川木場」と「深川洲崎十万坪」。深川十万坪は享保年間に埋立てられた新田で、木場の東側に当たります。

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 その後1969年に貯木場は荒川の河口に設けられた新木場に移転し、木場の地名だけが残されました。跡地は埋立てられて木場公園などになっています。一方、洲崎地区には明治時代に根津より遊郭が移され、昭和半ばまで吉原と並ぶ遊郭として賑わっていたことを書き加えておきます。

 かつての堀割の多くは埋め立てられましたが、深川地区は現在も大横川、古石場川など川に囲まれて橋の多い土地で、昔の面影がそこはかとなく残っているような気がしました。

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<繁栄稲荷>

20161210_170110_0004 大丸の創業者である呉服商・下村彦右衛門正啓は寛保3年(1743)に江戸店を開店後、宝暦7年から木場に別荘を所有していました。その一画に伏見稲荷を勧請して祀り、繁栄稲荷と称したのがこの神社の起源です。明治末に一旦閉鎖されましたが、昭和35年に社殿を当地に戻して再建されました。


 この後、地下鉄で内幸町に出て、「近どう」にて恒例のもんじゃ忘年会となりました。楽しく飲み食いし、おおいに盛り上がったことは言うまでもありません。東海道を歩き始めて、大勢で宴会をする機会が少なくなってしまい残念ですが、東海道踏破の目標のためには仕方ないですね。今後もたまにはこうして都内で宴会をする機会を設けたいと思いました。

 2ヵ月以上前の記録なので簡単に終わらせるつもりでしたが、書き始めたら深川の歴史が興味深くかなり長い記事になりました。やっぱり江戸は面白い!

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