開戦ドン
子どもの頃、「開戦ドン」という遊びがありました。2チームに分かれて、敵の陣地を取るべく競い合う遊び……ご存じの方、いらっしゃいますか?
低い塀がちょっと長めに続いている場所でよくやりました。「開戦ドン!」の掛け声で各チーム1人ずつが両側から走っていって、途中でじゃんけんをし、負けた方はそこで降り、勝った方はさらに敵陣に向かっていき、走ってきた次の人とまたじゃんけんをする……そして、敵陣に着いたら勝ちという遊び。
もう少し複雑な「水雷母艦」(「水雷艦長」と呼ぶのが一般的らしい)という遊びもありました。やはり、2チームに分かれて、それぞれ「本艦・水雷・駆逐」役を決めて、3つの役が協力しあって敵陣を攻め、敵の「本艦」をつかまえたチームが勝ち。「水雷」と「駆逐」は敵につかまえられると、捕虜として敵陣につながれ、味方の救出を待たなければなりません。
子どもの時は、「かいせんどん」も「すいらいぼっかん」(こう訛っていた)も「ほんかん・すいらい・くちく」も何のことかわからず、こんな漢字を書くことも知りませんでした。今思えば、まさに「戦争ごっこ」だったのですね。
ほかにも、じゃんけんの「グー・チョキ・パー」に「ぐんかん(軍艦)・ちんぼつ(沈没)・ハワイ」をあてはめて、「ぐんかぐんか、ハワイ」とか「ハワハワ、ちんぼつ」などと言いながら、じゃんけん遊びを楽しんでいました。
終戦からすでに20年以上は経っていたけれど、まだまだ「戦後」だったのだなぁとしみじみ思います。こうした遊び、今はもうありませんよね?
今日12月8日は、太平洋戦争の開戦記念日。63年前の今日、ハワイの真珠湾で多くの軍艦が沈没しました。
関連記事: 「満州の山奥で」 (2004年12月10日)
| 固定リンク
コメント
Tompeiさん、こんばんは。
私のところでは、「じらいこうへい」という遊びがありました。Tompeiさんと同じく子供の頃は漢字は分かりませんでしたが、今、考えれば「地雷、工兵」ではないかと思います。これは、帽子を前、横、後ろ向きに被り、前は横に、横は後ろに、そして後ろは前に勝ち、敵の陣地を取るために戦うというものでした。Tompeiさんの「水雷母艦」と似ていると思います。同じ遊びでも地方によって名前が変わるのですね。
当時、私たちは戦争は遠い遠い昔の事と思っていましたが、今、考えれば、戦争を知らないのは子供達だけで、まわりのほとんどの大人は戦争体験者の時代だった訳で、正に戦後だったのですね。
「南沙織の歌」等少し拝見しました。楽しい記事が多いですね。
又、じっくり寄せていただきます。
投稿: bunwa | 2004/12/08 23:46
>bunwaさん
こんばんは。さっそくいらしてくださって、ありがとうございます。
「じらいこうへい」……たぶん中味は「水雷母艦」と同じですね。3つの関係が「じゃんけん」みたいなんですよね。今思うと、なかなかよくできた遊びでした。同じチームの仲間と協力しあわないといけないので、遊びの中からいろいろなことを学べたような気がします。
20年前って、あの頃は大昔と思っていたけれど、今から20年前を思うと「ついこの間」という感覚ですよね。それだけ年を重ねてしまったということですね……。
これからもどうぞよろしくお願いします。
投稿: Tompei | 2004/12/09 00:48
子供の頃渋谷に買い物に行くといつも傷痍軍人がハーモニカを吹いていたりしました。
そうなんですよね、あの頃は「大人は何で大昔の戦争の話をよくしたがるんだろう」って思ってましたが、今で言えば、バブル景気の頃の話をしているようなもんなんですよね。
ちなみに目黒では「開戦ドン」「水雷母艦」と言っていた気がします(海戦どん、水雷ドカンだと思ってましたけど)
投稿: くりはら | 2004/12/09 22:25
>くりはらさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
浅草でも傷痍軍人をよく見かけました。みんな、白い服を着ていましたね。
そういえば、両親は「なつメロ」の番組が好きでしたが、そこには軍歌がたくさん出てきました。「そんな昔の歌ばかり」とうんざりしていたけれど、今で言えば、たのきんトリオや松田聖子、中森明菜あたりの感じなんですよね。何だか不思議。
実は私も、開戦ドンを「かいせいどん」と言っていた気がするんです。
投稿: Tompei | 2004/12/09 23:36
なつメロもそうですね。何で、そんな古いものを、と思っていたのに、70年代フォークをいまだに聴いたり歌ったりしてますから
投稿: くりはら(あれ、前は隊ちょ〜と名乗ったかな?) | 2004/12/09 23:49
>くりはらさん
なぁんだ……隊ちょ~さんでしたか(^^)。納得しました。やっぱり同じ世代ですよね。
投稿: Tompei | 2004/12/10 00:10
かなり、日が経ちましたが、もう一度、「開戦ドン」へ。
私も幼少の頃、父母に連れられて行った京都の新京極で傷痍軍人を見かけました。黒めがねの人、木の義足の人、アコーディオンの悲しい音色、何故か怖かった。
「満州の山奥で」でのゴム飛びの歌について。
子供の頃、女の子はよくゴム飛びをしていました。歌は・・き~し輝く日本の・・私はこの歳になるまで大きな勘違いをしていました。当時は池田首相か佐藤首相の時代ですが、私はこの一節を池田の前の岸信介を称えているものだと思っていました。当時、女の子たちは「きんし」とは言ってなかった。岸首相は立派な人と思ってしまった。その後は、ずっとおかしな歌と思っていました。目からうろことはこの事です。・・金鵄輝く日本・・で大いに納得しました。
恥ずかしながら、告白します。
投稿: bunwa | 2004/12/18 00:48
>bunwaさん
おはようございます。
あの頃は日本全国に傷痍軍人がいたのですね。そう、子ども心に「アンタッチャブル」な雰囲気を感じました。
「きし輝く」の告白、楽しく読みました。私の記事がきっかけで、何十年かぶりに目からうろこが落ちて、嬉しいです! こういう思い込みって、ほかにもありそうですよね。「金鵄輝く」の替え歌が全国的に出回っていたらしいことがわかったのも、大きな収穫です。
投稿: Tompei | 2004/12/18 07:41
ゲームの名前は「水雷駆逐」でした。
3人ずつ二つのチームに別れそれぞれのチームには
戦艦、駆逐艦、水雷艇がいて、戦艦の人が駆逐艦の人を触ってそれ沈めることが出来、駆逐艦の人は水雷艇の人に触ってそれを沈め、水雷艇の人は戦艦の人に触ってそれをを沈めます。それでお互いに守るために例えば戦艦と駆逐艦が一緒に行動して水雷艇が近ずかないように(近ずくと駆逐艦の人が水雷艇を沈める)するとかします。このようにして各チームのメンバーが離れたり組んだりして、相手の戦艦を沈めるまでやります。
投稿: 川崎 | 2010/01/12 05:05
>川崎さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
川崎さんのところでは「水雷駆逐」でしたか。そうそう、2人で手をつないで行動したりしましたよ。チームプレーで協力しあわなければならないところにこの遊びの面白さがありました。チーム分けはガキ大将2人がじゃんけんでメンバーを1人ずつ取っていく方式で、両チームが均等になるようにしましたっけ。今にして思えば、集団遊びって、人との関わり方を学ぶのにいい機会だったように思います。
投稿: Tompei | 2010/01/12 08:57