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2005/01/09

吉田松陰の言葉

 今日の読売新聞の朝刊のコラム「編集手帳」に、「山口県萩市立明倫小学校では、全児童が毎朝、郷土が生んだ幕末の教育家、吉田松陰の言葉を朗誦している」という話が出ていました。朗誦する言葉は学年ごと、学期ごとに変わるそうです。コラムには一部の言葉しか掲載されていなかったので、同小学校のサイトを訪ねてみました。

 「朗誦」というページに、全学年の朗唱文と読み方、その意味が説明してあり、朗唱の音声まで入っています。難しい言葉でも「読書百篇、意自ずから通ず」と言われるように、だんだん意味がわかってきて、子どもたちの心の支えとなることを願っている、と書いてあります。

 この明倫小学校は、長州藩の藩校、明倫館跡に開校された学校で、吉田松陰はこの明倫館で兵学を教えていたという深い縁があります。今でも校内には、当時の建物が史跡として残されています。こうした環境のもと、先人の言葉を朗唱して成長する子どもたちがうらやましく感じられます。今の教育に欠けているものが、ここには自然な形で残されているように思えるのです。

 印象に残る言葉を書いておきます。確かに、小学生には難しいですね。私にも読めない字、意味のわからない言葉が多数ありました。でも、子どもたちの元気な声を聞いていると、その難しさを超えるものがあるように思われます。

1年生 1学期
  今日よりぞ 幼心を打ち捨てて
  人と成りにし 道を踏めかし

3年生 3学期
  人賢愚ありと雖も
  各々一二の才能なきはなし
  湊合して大成する時は
  必ず全備する所あらん

5年生 1学期
  誠は天の道なり
  誠を思うは 人の道なり
  至誠にして動かざる者は
  未だ之れあらざるなり
  誠ならずして
  未だ能く動かす者はあらざるなり

6年生 3学期
  天地には大徳あり
  君父には至恩あり
  徳に報ゆるに 心をもってし
  恩を服すに 身をもってす
  此の日 再びし難く
  此の生 復びし難く
  此の事 終えざれば
  此の身 息まず

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コメント

遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

いーですね。こういうの。難しくて奥が深くて今の私の年でもわからないようなわかるような、そんな言葉ですが、きっと、この小学生達にとっては一生何度もそらんじる中で、意味を折々かみしめていくんでしょうね。私もテストで「平家物語」の冒頭を暗記させられましたけど、ふとしたときに「無常だよな、世の中は」と思い出します。

投稿: ayakokin | 2005/01/09 17:30

>ayakokinさん

 こんばんは。こちらこそ今年もよろしくお願いします。

 そうですね。学生の頃、無理やり覚えさせられた古典の出だしの部分や短歌や俳句を今でも記憶していて、ふとした時にそれを思い出すことがあります。当時はテストのために覚えただけで、そうした言葉が人生を豊かにしてくれるとは思ってもみませんでした。

 子どもの頃は説明されても実感が伴わなかった言葉の意味が、しみじみと心に沁みる時、年を取るのも悪くないなと思ったりします。

投稿: Tompei | 2005/01/09 19:39

そうそう、声に出すことって結構大事ですよね。
目で見るより、自ら声を出し、耳で聴く、脳への情報量や刺激が多くなるから、黙読よりもずっと記憶力が増す。しかも繰り返すことで、深く深く脳細胞のシワが刻まれていくのでしょう。

>子どもの頃は説明されても実感が伴わなかった言葉の意味が、しみじみと心に沁みる時、年を取るのも悪くないなと
・・・それが年を取るというのを実感する瞬間なんですかねぇ。逆にしみじみw

投稿: MIC | 2005/01/10 18:44

>MICさん

 こんばんは。

 頭の柔らかいうちに、もっとたくさんのことを脳細胞に刻みつけておけばよかった……とつくづく思います(^^;)。いやいや、残りの人生で少しでも頭が柔らかい今のうちに、刻みつけておかなければ! 目だけじゃなくて、声と耳を使って。

投稿: Tompei | 2005/01/10 20:41

吉田松陰なんて大っ嫌い!

なぜなら松陰と彼の弟子たちによって「僕」「君」といった男性に特化した呼称が広まったからです。こういった言葉の性差には悩まされます。

「僕」とはしもべを意味します。辞書で「僕」を引くと、「親しい人や目下の人に対して用いる」と書かれているので、子供が「僕」と言うのは問題ないし、大人でも友達や子供相手に「僕」を使うのは自由だと思いますが、上司など目上の人に対して「僕」を使っているのを見ると、男は女以上にへりくだらんといけんのかっていう感じで、ちょっと嫌です。

敬称の「君(くん)」は同輩や目下の人に対する場合に限って用いられ、「さん」は年長者を含め広く一般的に用いられますが、女子に「さん」、男子に「君」と男女を区別するための使用されるというのは、どうも頂けません。これは男性には上下関係の厳しい環境に耐えることを要求してるのに対し、女性は上下関係をあまり意識せず自由でいいということを暗示しているかにも思えます。あと、小学生から男子の「君」に対して女子が「さん」っていうのは、女子は大人のようにお行儀よくしなさいというのを暗示してるようで、女子もかわいそうなので、女子も「さん」で呼ぶなら男子も「さん」で呼ぶべきと思います。

投稿: グリム伊藤公雄 | 2011/04/22 14:10

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