« 増上寺 黒本尊御開帳 | トップページ | 第19回お江戸オフ《品川宿 後編》その3 »

2010/01/21

第19回お江戸オフ《品川宿 後編》その2

 今更ですが、年越ししてしまった12月のお江戸オフの記事を続けます。

 この日は前回の続きで東海道品川宿のうち目黒川以北の北品川宿界隈を歩きました。江戸時代を通じて本陣が置かれていた品川宿のメインストリートです。

京急「新馬場」駅13時集合→①東海寺→②東海寺大山墓地(沢庵和尚、賀茂真淵の墓)→③品川神社→(お茶)→④荏原神社→⑤寄木神社→⑥品川宿本陣跡→⑦利田神社→⑧土蔵相模跡→⑨問答河岸の碑→品川駅→(JR)→新橋(忘年会「近どう新橋店」)

 新馬場に集合する前に、一つ先の青物横丁から東海道を歩いてきましたが、それは前回の記事に追記しておきます。品川寺の六地蔵(前回ピンぼけ)と梵鐘(前回忘れた)の写真を撮ってきました。

東海寺(東海禅寺)
 江戸初期、徳川家光の命によって沢庵和尚のために創建されたお寺。紫衣事件に抗議して流罪になった沢庵は赦免後、家光に重用され江戸に呼び寄せられました。以降、東海寺は幕府の手厚い庇護を受け、敷地5万坪にもおよぶ大伽藍を有していました。明治維新後は財産基盤を失った上、敷地内に鉄道や道路が敷かれたため、一気に縮小してしまったそうです。
 「世尊殿」(写真左)は昭和5年に建立された禅宗寺院建築の仏殿。鐘楼は元禄年間に鋳造されたもので、綱吉の母桂昌院が寄進したと言われています。また境内には、寺院造営にあたった佐倉藩主堀田氏の墓などがあります。

Img_1823Img_1826

東海寺大山墓地
 東海寺から200m程歩いたJRの線路脇にあります。江戸時代はここまで東海寺だったんですね。幕末までは沢庵和尚のお墓だけがありましたが、明治になって東海寺のいろいろな墓地がここに集められたそうです。沢庵のお墓(写真左)も、近くにある賀茂真淵のお墓(右)も大きな自然石を置いただけの簡素なもの。まるで漬物石みたい。ふと、たくあん漬けを考案したのは沢庵という言い伝えを思い出しました。

Img_1827Img_1828

品川神社
 南北に分かれていた品川宿のうち、北品川の総鎮守。かつての祭神「牛頭天王(ごずてんのう)」から「北の天王さま」と呼ばれています。対する南品川の総鎮守が④荏原神社で「南の天王さま」。両社の祭礼をあわせて品川天王祭といいます。ちなみに、天王洲の天王も牛頭天王に由来。
 牛頭天王は神仏習合の日本の神で「祇園神」とも言われていましたが、明治の神仏分離で弾圧され、改組、改名させられました。でも今なお、ここは「天王さま」と呼ばれ、八坂神社は「祇園さん」と呼ばれているんですね。そもそも江戸時代、この天王社は東海寺と密接に結びついていたようだし、神仏が混沌となって両立していたわけです。

Img_1829Img_1837

 品川神社の正面石段の中腹左側に富士塚があります。高さが10m程あり、富士塚らしい富士塚。約1mおきに「1合目」から「10合目」まであり、急な石段を登ります。頂上からの景観はご覧の通り。昔はもっと海が近かったので、さぞかしいい眺めだったでしょうね。

Img_1830Img_1832



 本殿右奥に阿那稲荷社(下の写真左)があり、一粒万倍の泉で500円硬貨をすすいできました。いかにもご利益がありそうです。
 品川神社とは直接関係ありませんが、神社の裏手に板垣退助のお墓(写真右)があります。「板垣死すとも自由は死せず」と刻まれた石碑もあり。

Img_1838Img_1840




荏原神社
Img_1821 北品川の品川神社に対して、こちらは南品川の総鎮守。なのに、現在は目黒川より北の北品川にあります。昭和3年の目黒川の改修工事で川筋が変わったためです。
 古来より貴船社、天王社、貴布禰大明神、品川大明神などと呼ばれ、源義家が奥州征伐に向かう途中、戦勝を祈願したと伝えられています。

続く

|

« 増上寺 黒本尊御開帳 | トップページ | 第19回お江戸オフ《品川宿 後編》その3 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 第19回お江戸オフ《品川宿 後編》その2:

» 第19回お江戸オフその1(品川続編+忘年会) [Fancy Pet]
年末で忙しくて記事アップが遅くなりましたが、先週末19日に今年最後のお江戸オフをしてきました。 コースはこの間の品川オフでまわりきれなかった場所をまわってきました。 今回のコース。 13時新馬場駅集合... [続きを読む]

受信: 2010/01/21 20:40

« 増上寺 黒本尊御開帳 | トップページ | 第19回お江戸オフ《品川宿 後編》その3 »