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2010/02/26

池上梅園

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 昨日は春一番が吹いて、梅どころか桜が咲きそうな陽気でしたね。お天気はよいし、フィギュアは中休みだし(笑)、「今日を逃しては今年も行かずに終わっちゃう」と思って池上梅園まで行ってきました。

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 いやー、行ってよかった! 斜面にピンクの濃淡の梅が咲き乱れて見事。こじんまりした庭園で梅の数は370本とさほど多くないけれど、斜面という立地のおかげで3Dの観梅ができます。第2京浜からすぐの街中でお手軽に素晴しい梅を堪能できて、おすすめです。

 お隣りの本門寺には毎年初詣に行っているのに、ここの梅を見たことがなく観梅に訪れたいとずっと思っていました。やっと実現できて大満足。観梅の後、本門寺にお参りして、洗足池に寄ってきたので、後日その記事も書く予定です。そうして書かないままのネタがどんどんたまっていく……。

 梅だけでなく、福寿草も河津桜も満開……春の訪れに心が弾みます。花粉症ゆえマスク着用なのが何とも恨めしい。

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2010/02/16

招き猫伝説

 引き続き、豪徳寺ネタをひとつ。豪徳寺にはこんな招き猫伝説があります。

 豪徳寺がまだ名もない小さなお寺だった昔、和尚さんが可愛がっていた飼い猫が、通りかかった鷹狩りの武士たちに手招きしてお寺の中に招き入れた。和尚さんが一行をもてなしていると夕立がやって来たので、説法を聞かせながら雨宿りをさせた。武士は雷雨を避けられたうえに説法を聞けたことをたいへん喜び、このお寺に帰依したいと望んだ。この武士こそ、彦根藩2代藩主の井伊直孝で、以後、お寺は井伊家の菩提寺として栄えた。

 豪徳寺があるのは井伊様のおかげ、井伊様を招いてくれた猫のおかげというわけ。和尚さんは猫の死後、お墓を立てると同時に、猫の姿形を作り「招福猫児(まねきねこ)」として祀ったそうです。それが招き猫の始まり。現在、「招福堂」には招福観音が祀られています。観音様が猫の姿をしているのではなく、猫を遣わしてくださったということらしい。お寺では大小の招き猫を売っていて、お堂の横にそれを納める棚があります。

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200pxhikonyan01 余談ながら、ゆるキャラの元祖、彦根城の「ひこにゃん」はこの招き猫伝説にしたがって猫のキャラクターなんですって。知らなかった! 井伊家の赤備えの兜をかぶっていることももちろん知らなかった。ゆるキャラにも由緒正しい由来があるんですね。

 私が豪徳寺で買い求めたのは、2番目に小さい6㎝程の招き猫(下の写真、左)。武士にとって左手は不浄だから右手を上げているそうな。小判を持っていないのは「招き猫は機会を与えてくれるが、結果(=小判)までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方から。そこら辺の招き猫とはちょっと違うんです。

201002162133000 ところが、自宅に帰って気がつきました――以前どこかで招き猫を買ってきたことがあったっけ。写真の右側の小さい招き猫。裏を見たら「今戸神社」の文字がありました。そうそう、確か、今戸神社も招き猫発祥の地という触れ込みだったはず。公式サイトにアクセスしたら、下記のような説明がありました。

いわゆる招き猫の登場は江戸時代で、一方、人形としての招き猫はここ今戸の地で十六世紀から焼かれていた今戸焼が始まりといわれております。 伝わるところでは、江戸末期の話で、浅草に住むある老婆が、貧しさゆえに愛猫を手放したところ、夢枕にその猫が立って言いました。「自分の姿を人形にしたら必ずや福徳を授かる」と。 そこで老婆が横向きで片手を挙げた人形を作り、浅草寺の参道で売り出してみたら大評判だったとのことです。

あら、話が全然違う。そればかりか、ほかにも、新宿区の自性院説、豊島区の西方寺説ほか、いろいろあるらしい。福をもたらす猫があちこちにいたということかしら。招き猫めぐりもしなくては!


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2010/02/15

世田谷散策

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 ひさしぶりに晴れ間が出た昨日、世田谷の羽根木公園に梅を見に出かけました。見頃にはまだ早いと知りつつ、青空を見たら気が急いて……。ところが、あちこち寄り道したため、羽根木公園に着いた頃にはすっかり雲が広がってしまい、こちらは想定外。2、3分咲きの梅の花ははかなげで、曇り空がバックでは引き立ちません。人出はかなり多く、地元商店街が競い合う屋台は盛況でした。

 東急世田谷線の宮の坂から、世田谷八幡宮、豪徳寺、世田谷城址、松陰神社を巡り、小田急線梅が丘駅から程近い羽根木公園まで歩きました。

 豪徳寺と松陰神社の組合せは因縁めいていて面白い。豪徳寺には井伊直弼のお墓、松陰神社には吉田松陰のお墓があり、激動の幕末を象徴するような二人がわずか1キロ程離れた場所で眠っています。片や幕府の大老で開国派、片や長州藩の思想的リーダーで尊皇攘夷派。井伊直弼は安政の大獄で吉田松陰を処刑し、その安政の大獄が引き金となって桜田門外の変で暗殺されました。エピソードが満載で語り出すときりがないため、取り急ぎざっとご紹介します。

世田谷八幡宮
 源義家が建てたと伝えられ、世田谷吉良氏が鎌倉八幡宮を勧請して再興した神社。文化10年(1813)建築の社殿が現在の社殿の中に納められています。

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豪徳寺
 世田谷吉良氏が建立した弘徳院が前身で、江戸初期に彦根藩井伊家の菩提寺になり、藩主直孝の法号により豪徳寺と改称されました。

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 仏殿と梵鐘(写真右側の上下)は、江戸初期に井伊家の菩提寺になった際、建立されたままの姿で現存。招き猫発祥の寺とも言われ、招福堂に招き猫を供養する棚があります。

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 肝心の井伊直弼のお墓はあいにく修理中でシートで覆われていました。隙間から垣間見たら、解体修理をしているようで墓石がありませんでした(ブルーシートが見えるあたり)。

 実はこのお寺に来るのは2度目で、OL時代にここで行なわれたお葬式のお手伝いをしたことがありました。その時は自分の役目に必死でまわりを見るゆとりがありませんでしたが、今回再訪したら、古い建物が残る格調が高いお寺でとても気に入りました。井伊直弼のお墓を拝みにまた訪れたいと思います。

(再訪時の記事はこちら

世田谷城址公園
Img_2115 室町時代から戦国時代まで200年以上にわたって、世田谷吉良氏(足利一門)の城がありました。当時は豪徳寺も城域。




松陰神社
 吉田松陰を祭神として祀った神社。松陰は安政の大獄に連座し、伝馬町の牢獄で処刑され小塚原に葬られましたが、4年後に高杉晋作や伊藤博文らによって毛利家所領のこの地に改葬されました。境内には松下村塾のレプリカもあります。

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Img_1907 松陰のお墓は、安政の大獄で処刑された頼三樹三郎、小林民部ら、その他、幕末の長州藩戦死者のお墓と並んでいます。ついでに、伝馬町牢獄跡(小伝馬町十思公園)の「松陰先生終焉之地」碑の写真(1/6撮影)も貼っておきます。

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2010/02/12

第20回お江戸オフ《高輪》その4

こちらの続き)

 大木戸跡の近くでゆっくりお茶した後は、三田地区を駆け足で回りました。

御田八幡神社(みたはちまん)
Img_2064 三田の総鎮守。御田は三田の古称。





済海寺

Img_2066_2 安政6年(1859)に最初のフランス公使館が置かれた寺。前年に安政の五カ国条約(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダ)が結ばれ、各国の公使館が開設されました。アメリカ:麻布の善福寺、イギリス:東禅寺、フランス:済海寺、ロシア:箱館(江戸では三田の天暁院(大中寺))、オランダ:長崎出島(江戸では高輪の長応寺)。
 江戸時代、この辺りは「月の岬」と呼ばれた景勝地でした。

亀塚稲荷
Img_2067 聖坂の途中にある小さなお稲荷さん。港区最古の板碑があります。








薩摩藩上屋敷跡(NEC本社脇)

Img_2068 NECの高層ビルはわかりやすいけれど、藩邸跡の石碑を探すのに一苦労。手分けして探してようやく発見しました。たかが碑、されど碑……見つけないと気が済みません。石碑の西郷吉之助は西郷隆盛のお孫さんで、このビルの完成時に書かれたものです。
 あの篤姫が江戸入りして一時期ここに滞在しましたが、安政の大地震の被災後、渋谷の下屋敷に移っています。大政奉還後の慶応3年12月、上屋敷は幕府方に焼き討ちされて全焼し、戊辰戦争の引き金となりました。以後、広い焼け跡は「薩摩っ原」と呼ばれていました。

西郷・勝会見の地碑(三菱自動車本社北東端)
Img_2069 こちらの石碑は目立つ場所にでんと建っています。こちらも西郷吉之助さんの書。慶応4年(1868)ここにあった薩摩藩の蔵屋敷(田町藩邸)で西郷隆盛と勝海舟が会見し、無血開城が決まりました。
 それにしても、薩摩はさすが雄藩。江戸屋敷が方々にあります。この日歩いただけでも、高輪プリンス周辺が下屋敷、NEC周辺が上屋敷、ここが蔵屋敷。そのほか、中屋敷が内幸町のみずほ銀行本店周辺、下屋敷が白金の八芳園、渋谷の常陸宮邸周辺にありました。

鹿島神社

Img_2070 ⑭の石碑の横の道を入って行ったところにひっそりあります。かつては海浜にありましたが、今はJRの線路脇になります。この日の予定コースを滞りなく歩けたことを感謝して手を合わせました。


雑魚場跡(本芝公園)
Img_2071 この辺りは江戸時代に東京湾(江戸湊)で獲れた小魚を水揚げした場所で、雑魚場(ざこば)と言われていました。芝エビとは元々、この芝浜で獲れたエビのこと。落語「芝浜」の舞台になった場所です。
 雑魚場の記念碑を探すのを忘れてしまいました。「たかが碑、されど碑」なのに……。次回こそは絶対ぬかりなく回りたい! これ、いつも最後に書いている気がします(爆)。

201001301751000 この後、JRで新橋まで移動して、「温野菜」でしゃぶしゃぶ4種の宴会となりました。歩き回ってお腹はぺこぺこゆえ、がつがつ食べぐびぐび飲んで、食べ放題の元はしっかり取りました。
 これにてようやく完結。あれからもう2週間も経ってしまいました。その節、ご一緒してくださった皆様、遅ればせながら、ありがとうございました。そして長々読んでくださった皆様にも心から感謝いたします。

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第20回お江戸オフ《高輪》その3

こちらの続き)

 二本榎通りのクラシカルな歯医者さんの横丁を入り狭い路地を下って、泉岳寺に到着。現役の井戸がある懐かしい雰囲気の路地でした。

泉岳寺
 江戸初期に外神田に創建された寺が大火で焼失した後、ここ高輪の地に再建されました。家康の命による創建、家光の命による再建とも言われています。
 泉岳寺と言えば忠臣蔵――四十七士のお墓があることで有名です。大石内蔵助以下赤穂浪士は吉良邸への討ち入りの後、この寺まで引き揚げ、浅野内匠頭の墓前に上野介の首級を供えました。境内には、首を洗ったという首洗い井戸や、内匠頭が切腹をした際に血がかかったという梅などもあります。毎年12月13、14日には義士祭が行なわれています。
 泉岳寺を訪ねたのは2度目ですが、随分整備されて印象が変わりました。古めかしい義士館でおどろおどろしい展示物を見学した記憶がありますが、今や立派な赤穂義士記念館が建っています。前回お参りしたのは、1993年に宝塚で忠臣蔵を上演した年のことだから、もう17年も前なんですね。当時のごひいきが演じた義士のお墓に多めのお線香を手向けましたっけ(笑)。
 写真は順に、山門(天保3年(1832)再建)、大石内蔵助銅像(大正10年除幕)、四十七士墓所、首洗い井戸。

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高輪大木戸跡
 泉岳寺から第一京浜に出て、田町方面に少し歩いたところに「高輪大木戸跡」があります。高輪大木戸は東海道から江戸への入口に設けられた大木戸で、東海道の両側に石垣を築き、夜は大木戸を閉めて通行止めにしていました。江戸後期には木戸の設備は廃止され、現在は海側の石垣だけが残っています。肝心の石垣がはっきり写った写真がないので、またしてもwikipediaの画像(右)を拝借します。

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083 江戸百景の「高輪うしまち」は、大木戸を出てすぐ右側にあった車町(通称、うし町)の絵です。江戸初期に幕府が京都から呼び寄せた牛持人足が江戸定住を許されてこの土地を賜りました。大木戸から品川宿まで道の左側はすぐ海で見晴らしがよく、月見の名所でもありました。

続く

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2010/02/08

第20回お江戸オフ《高輪》その2

こちらの続き)

 高輪は台地の縁にあるため、アップダウンが多く、道がややこしい。地図上では隣りなのに迂回しなければ行かれなかったり、地図にはない狭い路地で繋がっていたり……。こんな道も通りました。左は東禅寺から桂坂に出る洞坂。坂道マニアのタモリさんご推薦の坂道です。右は二本榎通りから泉岳寺に下る途中の路地。ちょっと探検隊気分です。

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東禅寺
 プリンスから路地経由で裏手から到着。
 この東禅寺には幕末の安政6年(1859)、最初のイギリス公使館が置かれました。開国以来、攘夷の風潮が根強く、文久元年(1861)と2年(1862)に2度の襲撃を受けています。最初の襲撃事件は水戸浪士によるもの、2度目は警護担当の松本藩士によるもの。
 ついでながら――その後、安全を求めて御殿山への移転が決まり、立派な公使館が建設されましたが、完成間近の文久2年暮、高杉晋作ら長州藩士による焼き討ちに遭います。
 今はそんな動乱の時代が嘘のようにひっそりと静まり返っています。本殿の「海上禅林」という額は、正式名称「海上禅林佛日山東禅興聖禅寺」から。

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二本榎
 プリンスホテルの山側を第一京浜と並行して走っている道路を二本榎通りと言いますが、由来は江戸時代、街道沿いの上行寺(現在は移転)に大きな榎が2本あって目印になっていたことによります。何故か、桂坂との丁字路にも(写真左)承教寺にも(右)碑が立っていました。

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 この道は戦災に遭わなかったそうで、戦前の古い建物が残っています。左は高輪消防署二本榎出張所、右は和菓子の虎屋。虎屋で買ってきた栗饅頭が美味しかった! 羊羹の虎屋とは別のお店です。

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承教寺
Img_2051 元禄時代の画家、英一蝶(はなぶさいっちょう)のお墓がある日蓮宗のお寺。








大石内蔵助切腹の地(旧熊本藩細川氏下屋敷跡)
 実はここ、行きそびれました。というのも、二本榎通りを歩いていたら、「大石良雄等自刃ノ跡」という石碑(写真左)を見つけたので勘違いしまして……。この石碑の後ろに写っている都営高輪アパートの奥に「大石良雄外十六人忠烈の跡」があるようです。wikipediaの画像を貼っておきます。あいかわらず詰めが甘いですね。

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 二本榎通りをさらに歩くと、高松宮邸の少し先に「松島屋」という豆大福の名店があります。こちらで教えていただいて以来、ずっと気になっていたので寄ってみましたが、残念ながら売り切れでした。どうやら午前中に行かないと買えないらしい。

続く

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2010/02/04

第20回お江戸オフ《高輪》その1

 2010年最初のお江戸オフは記念すべき20回目。ここまで続けてこられたのも参加メンバーのおかげです。難しいお年頃ゆえ、それぞれ面倒な問題頻発の日常をこなしつつ、オフを楽しみにしている次第。このところ参加者が少なめでちょっと淋しいけれど、何とかフォローし合って細く長く続けたいと思います。

 さて、今回は品川の続き、高輪。品川駅の西側の高台一帯です。ちなみに、品川駅の住所表示は品川区ではなく港区高輪。古くは高縄と記され、高輪の字が使われるようになったのは江戸時代だそうです。

「品川」駅13時集合→①高山稲荷→(柘榴坂)→②元和キリシタン殉教の碑(カトリック高輪教会)→③高輪プリンス日本庭園・旧竹田宮邸→④東禅寺→(洞坂・桂坂)→⑤二本榎→⑥承教寺→⑦大石内蔵助切腹の地(旧熊本藩細川氏下屋敷跡)→⑧泉岳寺→⑨高輪大木戸跡→(お茶休憩)→⑩御田八幡神社→⑪済海寺→⑫亀塚稲荷→⑬薩摩藩上屋敷跡(NEC本社脇)→⑭西郷・勝会見の地(三菱自動車本社北東端)→⑮鹿島神社→⑯雑魚場跡(本芝公園)→田町駅→新橋「温野菜」

高山稲荷神社
 品川駅の向かい側にある小さなお稲荷さん。「おしゃもじさま」と呼ばれる石灯籠は縁結びの神として知られています。この石灯籠は、かつて高輪の高台にあった石神社から合祀されたもの。

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元和キリシタン殉教の碑(カトリック高輪教会)
 柘榴坂の坂上にカトリック高輪教会があり、その前庭に碑が建っています。
 元和9年(1623)、幕府のキリシタン弾圧によって「札の辻」付近で50人が火刑に処されました。殉教の地に近い教会ということで、ここに碑が建てられています。右の絵は高輪教会のサイトから拝借。

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 田町駅に近い刑場跡にも殉教碑があるので、そちらにも行くべきでした! 近くを歩いているのに通過してしまって残念です。

高輪プリンス日本庭園・旧竹田宮邸
 高輪・新高輪プリンスの敷地は江戸時代、薩摩藩ほかの下屋敷で、その後、皇族の竹田宮邸、北白川宮邸になり、戦後、西武鉄道が買収しました。に続いて、また西武の登場!(詳細はこちらのサイト
 竹田宮本邸の建物(写真左)が現存し、高輪プリンスの宴会場として使われています。明治42年(1909)竣工のルネッサンス様式。

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 高輪プリンスの敷地内に足を踏み入れるのは初めてでしたが、庭園が美しく、静かで落ち着いた雰囲気のホテルでした。河津桜が咲き始めていました。桜の季節、ちょっと贅沢なランチに利用してみたい!

続く

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2010/02/01

龍馬と品川

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 京浜急行「立会川」駅前の坂本龍馬像と浜川砲台跡の写真です。昨日の大河ドラマ『龍馬伝』の史跡紹介コーナーに登場したばかりですね。タイムリーにも一昨日のお江戸オフ(高輪散策)の集合前に立会川まで足を延ばしたので、さっそくご紹介します。

 土佐藩の抱屋敷(かかえやしき:拝領ではなく藩が独自に取得した屋敷地)が立会川河口付近にあったため、ペリー来航後、藩は幕府の許可を得て砲台(浜川砲台)を造って警備に当たりました。坂本龍馬もこの警備に参加したと言われています。警備陣は現在の大井公園の場所にあった下屋敷(こちらの記事参照)を宿所とし、砲台との間を毎日通ったそうですから、龍馬もこのあたりを歩いたはずです。

 実はこの龍馬像、土佐の桂浜にある銅像のレプリカで重々しさはありませんが、「大河ドラマで明日放映予定」ということで結構賑わっていました。地元商店街には龍馬のポスターやのぼりが目立ち、龍馬ブームに乗ろうと盛り上がっています。

 ところで、昨日のドラマでは龍馬と桂小五郎が黒船を間近で見るシーンがありました。史実ではないと思いますが、「あってもおかしくない」ことなんでしょうか。気になるので調べて見ました。
 ペリー来航     1853年6月3日 
 坂本龍馬(17歳) 1853年3月 江戸へ
 桂小五郎(19歳) 1852年9月 江戸へ
二人とも江戸にいたことは間違いないようですね。

 そういえば、6年前の大河『新選組!』では近藤勇と土方歳三も黒船を見てましたっけ。あのドラマでは龍馬や桂小五郎とも交流がありました。二人は何歳だったのか?
 近藤勇(18歳)
 土方歳三(17歳)
みんな同年代のハイティーン。うーん、なかなか興味深い! そのほか、吉田松陰、西郷隆盛、大久保利通は20代前半。後の徳川家茂6歳、慶喜16歳。幕末って若者が活躍した時代なんですね。

 と、横道に逸れたところでこの記事はおしまい。次はオフ本編の記録につなげます。

龍馬伝 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
龍馬伝 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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