人形町界隈散策(その2)
しつこく続きます。思い起こせば、この日は七福神めぐりの前後に欲張って江戸百景めぐりもしたのでした。人形町というよりその周辺ですが、せっかくだから記録しておきます。
江戸百景が描かれたのは江戸末期の安政年間なので、二丁町の芝居小屋(前の記事参照)はすでに浅草寺の裏手に移転した後で、跡地は火が消えたようになっていたはず。江戸百景には残念ながら人形町の絵はなく、新しい芝居町の猿若町が描かれています。
では、まず「両国橋大川ばた」。江戸時代、両国橋の東西の橋詰には火除けのための広小路が定められ、とくに西詰の広小路は多くの屋台や小屋掛けの店が立ち並ぶ江戸有数の繁華街でした。現在は繁華街の面影はまったくありません。
次は「馬喰町初音の馬場」。馬喰町(ばくろちょう)の名は、馬を売り買いする博労が住んでいたことに由来しています。江戸時代、馬喰町のはずれに「初音の馬場」という馬場がありましたが、現在、初音の地名はこの初音森神社に残るのみです。この神社の前身、初音森稲荷は明暦の大火後、川向こう(今の墨田区)に遷座し、第二次大戦後、いにしえの初音の里に儀式殿を建てたそうです。ビルの2階に入っています(東日本橋2-27-9)。
ついでに――。江戸時代、馬喰町は旅籠の町として有名でした。というのは、郡代屋敷があったため、訴訟などで地方から出てくる人を泊める公事宿が並んでいたのです。
続いて、「大てんま町木綿店」と「大伝馬町ごふく店」。似たような絵が2枚あります。江戸時代以前、大伝馬町は奥州街道の最初の宿駅で、伝馬を備えていたことから町名が付けられました。宿駅が千住に移った後、木綿問屋が進出してきて江戸有数の商業地に発展しました。右の絵の呉服店「下むら大丸屋」は今の大丸の前身。現在も馬喰町、横山町、小伝馬町、大伝馬町界隈は衣料問屋のビルが立ち並んでいます。(大伝馬町の写真は撮りそびれました)
最後は「鎧の渡し小網町」。鎧(よろい)の渡しとは、日本橋川の小網町と茅場町を結ぶ船渡しで、明治になって現在の鎧橋が架けられました。この「鎧」という名は、源義家の奥州征伐に由来するとも、平将門に由来するとも言われています。近くの兜町の「兜」も同様。ちなみに、兜町という町名は明治以降のもので、昔からあった兜塚にちなんでいます。
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コメント
馬喰町は昔電車で通り過ぎてばかりで、実際に降りたことはなかったので、勉強になります。
たぶんお江戸オフをしていなかったら、この先も興味を持つことなく歳を重ねてしまったかも。
色々頭を突っ込んでみると世界が広がって楽しいということが最近になってようやく実感できるようになりました^^
投稿: ぶんぶん | 2010/04/22 19:59
初音神社、懐かしい!
以前勤めていた職場のお隣でした。
なぜここに、しかも二階に神社?
狭くて、ひっそりしていて、誰も来ない感じなのに。と
めいっぱい頭の中にはてなマークが飛んでいました。
そういう経緯があってここにおさまっているのですね。
川向こうはやっぱり隅田川から向こうでしたか。(^^ゞ
みな、自分勝手に自分の住まいよりあっちがわを川向こうと言っていた記憶があります。(^^;)
兜町の由来はそんなに古いときからの物なのですね。
「神田」は将門の身体があったところとも聞いたことがあるから、そう考えれば、兜町の由来も納得です。
投稿: 陶片木 | 2010/04/22 21:13
ぶんぶんさん、陶片木さん、おはようございます。
>ぶんぶんさん
本当にそう。私なんか、15年も牢屋敷の近くで働いていたのに、足を踏み入れたのはこの日が初めてでした。
昔のことなんて知らなくても暮らしていけるけれど、知ると楽しいし、2Dが3Dになるみたいに深みを増す感じがします。
>陶片木さん
初音神社のお隣りに勤めていたとはびっくり! この記事を書いた甲斐がありました(^^)。ひっそりしていて一人で階段を上っていくのに躊躇しちゃいました。勇気をふりしぼって(?)上がってはみたけれど、そそくさと下りてきましたよ。
墨田区民からすれば、浅草や日本橋は川向こうなんだけど、そうは言わないのよね。微妙に差別意識が感じられる言葉で、「どうせアタシゃ、川向こうの出さ」といじけています(^^;)。
投稿: Tompei | 2010/04/23 07:48