第22回お江戸オフ≪千住宿≫ その1
今回のオフは小塚原から北上して北千住まで。東海道の最初の宿駅「品川」を制覇したので、続いて日光街道(奥州街道)の第一宿「千住」界隈です。
JR「南千住」13時集合→①小塚原回向院(幕末志士・鼠小僧などの墓、観臓記念碑)→②延命寺(首切地蔵)→③浄閑寺(吉原の遊女の投込み寺)→④永久寺(目黄不動)→(マックでティータイム)→⑤公春院→⑥真正寺→⑦円通寺(彰義隊士の墓、寛永寺の黒門)→⑧素盞雄(すさのお)神社→⑨荒川ふるさと文化館→⑩熊野神社→⑪千住大橋→⑫大橋公園→⑬橋戸稲荷→⑭やっちゃ場跡→⑮旧街道→「北千住」駅→上野「土古里上野バンブーガーデン」で宴会
千住宿の成り立ちをさっと簡単にたどると――。徳川家康は江戸入府後まもなく、1594年に隅田川に千住大橋を架設。1625年、千住は日光道中(街道)第一宿に指定されて、現在の北千住界隈から発展し(本宿)、次第に南下し掃部宿など3町が追加され(新宿)、その後、川の対岸の小塚原町などが加わりました(南宿)。幕末期には家屋2400軒近く、人口約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町でした。現在は千住大橋を境に、北が足立区、南が荒川区。
①小塚原回向院
②延命寺
日光道中を下ると千住宿の手前の道沿いに小塚原刑場がありました。間口180m、奥行54m。明治初期に廃止されるまでに20万人以上が処刑されたといいます。現在、延命寺がある周辺がその跡地にあたります。
回向院は1667年、両国の回向院が刑死者を供養するために創設した子院。延命寺にある「首切地蔵」は1741年、回向院によって建てられ、明治の鉄道建設時に現在の場所に移転されました。延命寺は昭和57年に回向院から分離独立しています。
うーむ……千住宿は目と鼻の先、吉原からも1キロ程しか離れていない場所に刑場があったとは……。しかも埋葬がいい加減でひどい状態だったそうな。できるだけ想像しないように淡々と事務的にそそくさとお参りをすませました。この日は後で訪ねる素盞雄神社のお祭りで南千住一帯は賑やかでしたが、回向院と延命寺の中はそんなお祭りムードとは正反対の重い空気が漂っていて、正直足を踏み入れるのが怖かった。写真も最少限です。余計なものが映ると怖い。
左の写真は回向院内の吉田松陰のお墓、右の写真は一番左が鼠小僧、右から2番目が高橋お伝のお墓。松陰は小伝馬町で処刑され、小塚原に葬られました。刑死人の遺骸は捨てられることになっていましたが、長州藩の藩医の一人が賄賂を使って獄吏から松陰の遺体を受け取り、身を清めて埋葬したと言われています。その後、高杉晋作らが世田谷への改葬を強行しました。それが現在の松陰神社です。鼠小僧のお墓は両国の回向院のものが有名です。こちらは回向院つながりでしょう。
指の隙間から怖々垣間見ている心境ゆえ、観臓記念碑のことをすっかり忘れていました。18世紀後半、杉田玄白、前野良沢らが小塚原刑場で処刑された罪人の腑分けを見学し、それがきっかけになって『解体新書』を翻訳したことを記した碑が回向院内部の壁にあります。桜桃さんの記事によれば、気がついたところで車が邪魔で写真を撮れなかったらしい。
③浄閑寺
やりきれない場所がもう一つ。吉原の遊女の投込み寺と言われるのがこの浄閑寺。お寺の公式サイトには、「安政大地震の際に吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから『投込み寺』と呼ばれるようになった」とあります。2万人もの遊女が葬られ、川柳に「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれました。門前のお地蔵様はどれだけ多くの遊女たちの悲しい姿を見たのでしょう。
心が痛むお話は江戸時代で終わったわけではありません。昭和38年の吉展ちゃん誘拐事件はこの地から程近い入谷で起き、2年後、この後立ち寄った円通寺で白骨化された遺体が発見されました。回向院と円通寺によしのぶ地蔵が祀られています。吉展ちゃんが生きていたら、私と同年代のおじさんになっているのに……。合掌。
(続く)
*「江戸・東京」というカテゴリーを作ってみましたが、移動がはかどらないので、悪しからず。
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コメント
土曜日はお世話になりましてありがとうございました。
こうして記事にしてみると改めて重いテーマでずっしりときてます。
みんなのテンションも下がり気味だったよね^^;;
私は責任上必死でしたが…。
でもね、もっとこういう暗部の面も掘り下げたいと思ってる私はバカもん?
投稿: 桜桃 | 2010/06/08 10:41
>桜桃さん
さっそくのコメントありがとうございます。今回もいろいろお世話になりました。
いや、暗部も含めての江戸であり、東京だと私も思います。表面のきれいな所だけ見ても理解できないもの。
このあたりは山谷地区も近く、重い歴史をずっと引きずっているんですよね。刑場跡地だけじゃなくて、そんな雰囲気をなんとなく肌で感じてしまったのも重さの原因だったかもしれません。そのうち何割かは私の中にある偏見みたいなものの影響かもしれないと思うと、ますます沈むのよ……。
投稿: Tompei | 2010/06/08 11:09
日曜日は(だよ
)お世話になりました。
テーマはわかってましたが、想像以上に重い場所でしたね。
お江戸オフに参加して、(竜馬伝を見るたび、)当時の争いごとって、それぞれ志があって行ってるのに、善になれたり悪になっちゃったりがわかってきて、
さぞ無念だった罪人も多かったろうと思います。
まあ、信念に基づいて戦った男性はそれでも良いけど、吉原の女性たちは被害者以外の何者でもないんですよね。
でも、暗い気が強かったのは小塚っぱらのほうでしたが…
投稿: ゆれい | 2010/06/08 11:14
>ゆれいさん
日曜日は(^^)ありがとうございました。
そうそう、新選組なんてお上のためと思って働いてきたのに、気がついたら賊軍だもの。無念だし、「何故?!」という心境だったのでは? あ、前回の「龍馬伝」は池田屋事件だったはず。録画してあるけれどまだ見てません。
吉原……華やかな花魁道中の陰で、遊女にとってはまさに苦界だったんでしょうね。
投稿: Tompei | 2010/06/08 19:12
日曜日はありがとうございました。
久々のオフでした。
華やかなお江戸の裏には、こんな修羅があったのだと
あらためて知りました。
光と影は一緒ですものね。
私もほとんど写真を撮らず、また足も踏み入れずぼんやりしておりました。
重くて暗いオーラが漂っていましたよね。
天王祭の賑やかな声が、あまりに対照的でなおさら重く感じました。
よしのぶちゃん事件、うっすらとしか記憶にないのですが、親が神経質になっていた時期があったなぁと思い出しました。
吉原の川柳はどこかで聞いたことがあったのですが、そのお寺がここだったのですね。
そこかしこで思わず念仏を唱えてしまいました。
投稿: 陶片木 | 2010/06/08 19:51
両国の回向院は相撲試合なんかも行われたんですよね?違った?
それに比べるとこちらの回向院はすごく荒涼とした寒々しいものを感じるのは鉄道脇だということもあるのでしょうか?
ちゃんと成仏できているのかなぁと心配になったり・・・
高橋お伝のお墓って、谷中霊園の中にもありませんでしたっけ?あれれ?もう記憶がごちゃごちゃです^^;
投稿: ぶんぶん | 2010/06/08 21:21
陶片木さん、ぶんぶんさん、おはようございます。
>陶片木さん
久々のオフが楽しい場所じゃなくて申し訳ないです。
でもこれも江戸であり、東京の一面なんですよね。見たくない場所に支えられているというのかな……今だってそう。そんなことを感じ、考えただけでもよかったのかなと思っています。
よしのぶちゃんの事件は当時たいへんな騒ぎでしたよね。子供だったので詳細は覚えていませんが、今でも「よしのぶ」と聞くとこの事件を思い出すほどのインパクトです。
>ぶんぶんさん
そう、両国の回向院では勧進相撲が行われていたんですよね。同じ回向院とは言え、こちらは刑場脇なので役割も雰囲気もまったく違ったはずです。
高橋お伝のお墓、谷中にもありました。谷中のお墓は、お伝の話を舞台で演じた歌舞伎役者が寄付して建てたそうです。これ、明治になってからの事件なのね。だから処刑されたのは小塚原ではなく市ヶ谷監獄ですって。市ヶ谷に監獄があったことも知りませんでした。
投稿: Tompei | 2010/06/09 07:38