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2011/05/31

近江紀行(その6)近江八幡

 旅行最終日の朝は近江八幡で迎えました。まずは車で日牟禮(ひむれ)八幡宮へ。

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 近江八幡は豊臣秀次(秀吉の養子)が築いた城下町が発展した商業都市で、近江商人発祥の地。「八幡」の地名はこの日牟禮八幡宮に由来しています。古くは八幡山の山頂に上社が、麓(現在地)に下社がありましたが、秀次の築城時に合祀されました。

 八幡宮を参拝した後、ロープウェイで八幡山山頂へ。秀次は1585年、この山に八幡山城を築きました。現在は石垣の一部を残すだけで、跡地に瑞龍寺が建っています。この瑞龍寺は、秀吉に謀反の疑いをかけられて自害した秀次の菩提を弔うために、生母・日秀尼公(秀吉の姉)が京都に創建したお寺で、昭和36年にここに移築されました。ちなみに、秀次の後、京極高次が5年程城主となったので、お初もこの地で暮らしています。

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 この日はようやく晴れたのに、黄砂で見晴らしが悪くて残念。この後、八幡宮から歩ける範囲を散策しました。近江八幡の代表的な景観である八幡堀、近江商人の古い町並みが残る新町通り、市立資料館、ヴォーリズ建物などを見ながらぶらぶらしました(写真上から順)。ヴォーリズは明治時代に英語教師として招かれ、終生この地で暮らしたアメリカ人。建築家として多くの西洋建築を手がけた一方、近江兄弟社を創立してメンソレータムを日本に普及させました。

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Img_0439 静かで落ち着いたいい街です。GWだと言うのに観光客もあまりいないように見えるでしょう? が、ここは混んでいました。たねやです。たねやは近江八幡生まれの和菓子店で、バームクーヘンのクラブハリエも展開。近江八幡や彦根では一等地にたねやとハリエを並べ、レストランも併営して賑わっていました。


<追記: 2016年3月1日>

 母校・青山学院から送られてきた同窓会誌によれば、青学の神学部寄宿舎と高等女学部のプラット記念講堂はヴォーリズが手掛けたものだそうです。神学部寄宿舎は第二次大戦の空襲で焼失し、プラット記念講堂は戦災後、大々的に修繕して2013年まで高等部のPS講堂として使われたとのこと。高等部時代、毎日礼拝が行なわれていたPS講堂がもとはヴォーリズ設計とはびっくり! 


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2011/05/26

近江紀行(その5)安土城

 次に訪れたのは安土城跡。織田信長や安土城にとくに興味があるわけではなく、ほとんど下調べもしないで行ったら、これがすごいところでした。まず石段がすごかった! 一目見て「来るんじゃなかった」と思いました。けれども、頑張って天主跡に上り、その後「信長の館」を見学したら、すっかり安土城に魅せられまして……今や、信長がマイブームです。旅行後、信長や安土城に関する本を読んでは、「もっとしっかり見てくるんだった」と後悔する日々です。

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 この石段の道は大手道。平成元年に始まった発掘調査で発掘され、整備、復元されました。上の写真は登り口の部分ですが、真ん中辺から左に渡ったところに伝羽柴秀吉邸跡(下の写真左)、右に渡ったところに伝徳川家康邸跡(現在は摠見寺仮本堂、写真右)があります。信長のお城に秀吉や家康の邸があるのは不思議ですよね。森蘭丸邸跡はもっとずっと上のお城の近くにありました。帰り道にこの摠見寺を拝観し、お抹茶をいただいて山登りの疲れを癒しました。行きはひたすら石段を上るのみ!

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 安土山は琵琶湖の湖面から高さ100m少々ですが、その倍にも3倍にも感じました。備え付けの杖を借りて、ふうふうぜいぜい言いながら上ること20分程でようやく天主や本丸の跡地に到着。一部の石垣が残るだけですが、何とも言えない雰囲気が漂っていました。 つわものどもが夢のあと……。右の写真は天主跡に整然と並ぶ礎石。ここに高さ33m5層7階(地上6階地下1階)の天主が建っていたのです。天主もその他の建物も本能寺の変の10日あまり後、何者かによって火が放たれて焼失しました。

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Img_0386 二の丸跡にある信長廟。信長の葬儀を行なった秀吉が建てたと言われています。石を積み上げた檀に大きな石が乗っているだけの簡素なお墓です。






Azuchi_town_sokenji_tower 見学順路はこの後、摠見寺の三重塔と二王門を迂回して下山するようになっていましたが、そちらはパスして再び大手道を下りてきました。くたびれたし、雨が降り出しそうだったし、「お寺はいいや」と思って……。が、それは大失敗。摠見寺は信長が安土城築城時に建てたお寺で、門と塔が炎上を免れて現存しているのだから見ておくべきでした。その門と塔は元々甲賀のお寺にあったものをこの地に移築したそうです。右の写真はウィキペディアから拝借しました。

 長くなりますが、一つの記事にまとめたいのでまだ続きます。

 安土城跡を後にして向かったのは「安土城天主 信長の館」。1992年のセビリア万博の日本館に展示された安土城天主の最上部5階6階部分が移築、公開されています。昭和40年代に発見された「天守指図」(設計図)に従って原寸大に忠実に復元されたもので、内部の障壁画は「信長公記」の記述を元に再現されました。

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 大きすぎて近すぎて全体が撮れません。内部もご覧のように豪華絢爛。5階(下の写真左)は八角形で仏教の極楽浄土の絵が描かれ、6階(写真右)は古代中国の思想家の絵が描かれています。

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 さっきまでいたあの山の上にこんな天主が建っていたとは! 実際はこの3倍の高さがあったわけで、天主全体の威容を想像して驚くやら興奮するやら。織田信長はこの金ぴかの空間で何を考えていたのでしょうね。

 旅行後に「信長の夢「安土城」発掘」 という本を読んで安土城について知るにつれ、さらに驚くことばかりです。が、きりがないので今日はこの辺で……。最後にこの本に載っていた天主の断面図を貼っておきます。

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2011/05/23

近江紀行(その4)彦根

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 近江の旅ようやく2日目です。月が変わらないうちに終わらせたい。

 彦根と言えば、彦根城。彦根城は、関ヶ原の合戦後、井伊直政が近江北東部を拝領して築城して以来(直政は1602年に関ヶ原の戦傷が癒えずに死去)、幕末まで井伊家14代の居城でした。多くの建物が創建当時の姿をとどめており、天守は国宝に指定されています。

 天守は3階3重構造。梯子のような急な階段をよじ登って最上階まで上がりました。戦闘時に矢を放つための穴や鉄砲用の穴が多数ありますが、戦いの舞台になることはありませんでした。京極高次が築いた大津城の天守を移築した可能性があるらしい。何度か解体修理をしているとはいえ、400年前のお城の内部は重々しく風格があり、空気が違いました(内部は撮影禁止)。

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 玄宮園(下屋敷庭園)から仰ぎ見た天守。この日はあいにく雨の予報でしたが、なんとか傘をささずに城内を回れました。天守の後、西の丸三重櫓、佐和山多門櫓、馬屋などを見学。この玄宮園で抹茶をいただきながら一服しました。

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 ひこにゃんの撮影タイムや井伊の赤備え隊による火縄銃実演などのイベントがあり、GWの行楽客で賑わっていました。また、彦根城博物館は復元した表御殿や能舞台を巧みに取り入れた構造で、展示物も充実していました。

 井伊と聞いて思い浮かべるのはやっぱりこの方、井伊直弼ですよね。直弼は11代直中の14男として彦根城で生まれましたが、兄弟が多い上に庶子であったために養子の口もなく、父の死後、17歳から32歳まで城外の屋敷で過ごしました。直弼が自らを花の咲かない埋もれ木に例えて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた屋敷が現存し、公開されています。

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 直弼はこの埋木舎で茶道や和歌、能などを楽しみながら、若くして世捨て人のような暮らしをしていました。当時付いたあだ名が「チャカポン(茶・歌・鼓)」。ところが、世子の死去にともない、期せずして藩主後継者となり埋木舎を後にして江戸に向かいます。その後は36歳で藩主、44歳で幕府大老、46歳で桜田門外の変で殺害……幕末の歴史の波に翻弄されて生涯を終えました。直弼が一生チャカポンでいたら、日本の歴史は変わっていたかもしれませんね。

 午前中いっぱいゆっくり彦根城界隈を見学できて満足。井伊家の彦根城は江戸時代の空気を感じられる名城でした。昼食後、次の目的地、多賀大社へ向かいました。

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 多賀大社は古事記・日本書紀の時代に歴史をさかのぼる古社。古くから「お多賀さん」と親しまれ、伊勢、熊野とともに庶民の参詣で賑わいました。秀吉の信仰も篤く、江戸時代には幕府や彦根藩から手厚い寄進を受けました。

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2011/05/20

特別展「五百羅漢」(江戸東京博物館)

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 昨日、お江戸三人娘で江戸博の「五百羅漢」展を見てきました。

 五百羅漢といえば、目黒の五百羅漢寺の彫像や川越の喜多院の石像を思い出しますが、今回の五百羅漢は幕末に描かれた絵です。172×85センチの画面に羅漢が5人ずつ描かれ、全部で100幅。廃仏毀釈や第二次大戦を乗り越えて、増上寺に秘蔵されてきたものが一堂に公開されています。

 作者は、狩野派最後の絵師、狩野一信。一信はかつて本所にあった羅漢寺を参拝して、この絵の構想を得たようです。ということは、目黒の五百羅漢寺に現存する松雲禅師作の彫像を見たのがきっかけなんですね。松雲禅師は10数年かけて536体彫り、一信は10年かけて100幅描いた。執念とも言える創作活動です。がしかし、一信は96幅まで描き終えて病死してしまい、残り4幅は妻と弟子が完成させて増上寺に奉納したそうです。最後は精神に異常を来たしたらしい。

 その悲しい結末が納得できてしまうような、何とも奇っ怪な迫力でした。羅漢だけでなく、人間、動物、仏、餓鬼などあらゆるものが混沌と存在しているんです。細部まで凝っているので見ていて飽きないけれど、それをいちいち見ていたら日が暮れてしまいそうだし、その前に魂を吸い取られそう。

 今まで見聞きしたことがなかったので、記念にチラシの両面とリストを貼っておきます。

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 江戸博鑑賞後、浅草橋の中華料理「馥香(フーシャン) 」にてランチ。陶片木さんも合流して楽しいひとときでした。江戸博よりランチがメインかも……いつものことではありますが……。

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2011/05/13

近江紀行(その3)石田町から長浜へ

Sora 今回の近江旅行のきっかけのひとつはこれ→。気恥かしいので小さな画像で。

 石田三成は近江の土豪の家の生まれで、石田という苗字は地名に由来しています。滋賀県長浜市石田町(当時は、近江国坂田郡石田村)に屋敷跡があるので、琵琶湖に戻る道すがら寄ってみました。

 これは三成の生家に程近い観音寺という寺院。このお寺の小僧だった三成は、鷹狩りで立ち寄った秀吉にお茶を3杯献じて、秀吉に才能を見い出されたと言われています(どこの寺か諸説あるが、地元なのでここの可能性が高い)。「三成水汲みの井戸」もありました。立派なお寺ですが、今はほとんど手入れされておらず、そのうち朽ちてしまいそうな雰囲気でした。

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Img_0329 ちなみに、JR長浜駅前に「秀吉・三成出会いの像」があったのでこちらに貼っておきます。この出会いがなければ、三成は歴史の舞台に立つこともなく、地元で静かな一生を終えていたかもしれませんね。


 そして、こちらが三成屋敷跡。今は石田会館になっていますが、午前中のみ開館のため、中には入れませんでした。上のポスターが貼ってありました!

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 実はこの石田会館のすぐ近くに石田神社があって、三成の供養塔があるのに、不覚にも行きそびれてしまいました。残念無念! 事前のリサーチが甘かった……反省。

Img_0328_2 石田町経由で長浜に出て、長浜城歴史博物館を見学しました。NHK大河ドラマのお江関連の展示で盛り上がっていました。長浜城は小谷城陥落の後、秀吉がその功により信長から浅井氏の旧領を拝領した地に築城したお城。現在の建物は博物館用に再建されたものです。ここから5キロ程の小谷城跡では「浅井三姉妹博覧会」開催中ですが、今回のコースには入れませんでした。

 長浜の街には「黒壁スクエア」という古い家並みの観光スポットがあり、ガラスを扱うショップや体験教室などが並んでいます。その一角にあるお店で一服。つぶら餅というたこ焼き風の餡子餅が美味しかった! 豊国神社にお参りした後、宿泊地の彦根に向かいました。

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 彦根は関ヶ原の合戦後、井伊直政が開いた城下町ですが、それ以前は石田三成の居城、佐和山城がありました。佐和山城は合戦の3日後に落城したのでした。佐和山と佐和山城表門(現在は宗安寺赤門)の写真を貼って、三成を偲ぶ記事を終えます。

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2011/05/09

近江紀行(その2)関ヶ原

 近江紀行ではありますが、まずは美濃の関ヶ原から――。米原でレンタカーを借り、カーナビの最初の目的地を関ヶ原町歴史民俗資料館に設定して、いざ関ヶ原! 

 関ヶ原に向かうにつれ雲行きが怪しくなり、資料館の近くで雷鳴の出迎えを受けました。ゴロゴロではなくバリバリという鋭い音がいかにも風雲急を告げるという感じで関ヶ原らしい。資料館で合戦当日の経過をざっと頭に入れ、詳しい資料をもらって外に出る頃には雷雲は去っていました。グッズ売り場でこんなクリアファイルを入手。

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 資料館のすぐ近くにある「徳川家康最後陣地床几場」。家康は桃配山から軍を進めて、最後はここで指揮にあたり、部下が取ってきた敵の首を確認したそうです。以下は車で回りました。

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 資料館から2キロ程東の「徳川家康最初陣」。桃配山の中腹にあり、関ヶ原中央部が見渡せます。右の写真の左手前にある石に家康が腰かけたと看板に書いてあったので、私も座ってみました。ちなみに、桃配山の名前は壬申の乱の際、大海人皇子がこの地で桃を食べたことに由来するとのこと。壬申の乱の舞台も関ヶ原だったんですね。

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 再び中央部に戻って北上、笹尾山の「石田三成陣」です。右の写真は左の陣から見た景色。中央やや左寄りの田んぼの中に見える陣旗が決戦地です。桃配山は左前方に少し見えています。各陣やその動きがよく見えたでしょうね。西軍優勢の頃は三成もここでにんまりしたはず。小早川さえ寝返らなければ……。

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 最後は「決戦地」。小早川の寝返り後、東軍諸隊が三成の首を狙って激戦を繰り広げた場所です。右の写真は決戦地付近から笹尾山方面を見たもの。左手前の山の中腹に三成陣の旗が見えます。三成は敗戦が確定した後、関ヶ原を脱出し、笹尾山の背後に見える伊吹山に敗走しました。

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 というわけで、我々も関ヶ原を後にして、伊吹山に沿って北国街道を進みました。簡単ながら、関ヶ原はこれでおしまい。この他にも各軍の陣跡があるので歩いて回ったら面白そうです。とくに松尾山の小早川陣には興味津々ですが、小一時間山登りをしなければならないのでパス。

 今まで何度となく新幹線で通り過ぎたけれど、この地に立つ日が来ようとは思っていませんでした。歴史の現場に立つ――何かが残っているわけではなくても、やはり感じるものがありました。

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2011/05/05

近江紀行(その1)

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 GW前半に滋賀に行ってきました。そうだ、近江に行こう――これこれによって、俄然その気になってホテルの予約を入れたのは2月のこと。その後、震災があって旅行気分は吹き飛びましたが、気を取り直して決行しました。

 日程はこんな感じ。効率よく回るには車がないと無理なので、夫に同行してもらい、レンタカーを利用しました。私が言うままにアッシーに徹してくれた夫に感謝!

4月30日(土)
東京8:30→米原10:49(ひかり)

関ヶ原(歴史民俗資料館、家康陣、三成陣、決選地)

三成ゆかりの石田村(観音寺、三成屋敷)

長浜(長浜城、黒壁スクエア)

(夕食)「ほっこりや」(キャッスルロード)
彦根泊(キャッスルホテル)

5月1日(日)
彦根城(彦根城博物館、埋木舎)

多賀大社

安土城址、天主信長の館

(夕食)近江牛「ティファニー」
近江八幡泊(ホテルニューオウミ)

5月2日(月)
近江八幡(日牟礼八幡宮、八幡山ロープウェイ、資料館)

石山寺

三井寺

京都19:22→東京21:43(のぞみ)

 我ながら欲張りなスケジュールですが、ほぼ予定通りに回れて満足しています。予定をはっきり決めずにのんびりする旅行が好きだったのに、こんなに忙しないことになっちゃって……。これはたぶんお江戸オフの影響です(笑)。

 行きの新幹線からは幸先よく富士山がきれいに見えたのに、現地は曇りか黄砂ですっきり晴れることがなかったのが残念でした。きらきら光る琵琶湖が見たかった! ま、ほとんど傘をさすことがなかっただけよしとしましょう。これから旅行記をだらだら書く予定ですので、よろしかったらお付き合いくださいませ。

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(黄砂に霞む街)

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