« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011/06/16

府中のあじさい

Img_0541

 先週末、府中の郷土の森博物館にあじさいを見に行ったので、遅ればせながら写真をアップします。梅雨空続きのこの季節、あじさいの花に癒されますね。見頃はもう少し先のようでしたが、咲き始めの淡い色がなんとも美しかったです。

Img_0518

Img_0531

 ここは梅の名所でもありますが、梅の実がたわわになっていました。当然、持ち出し禁止です。さくらんぼが実った木も見つけました。

Img_0532Img_0521

Img 博物館ではこんな展示をやっていました。これを見て、プラネタリウムで「はやぶさ」の映像を見て、少しお勉強もしました。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2011/06/14

第27回お江戸オフ≪板橋宿≫(その2)

こちらの続き)

 マックでたっぷり休憩した後、旧中山道をさらに下りました。

⑥遍照寺

Img_0497_2 江戸時代には境内に馬つなぎ場があったので、その名残りの馬頭観音が残っています(写真の一番左の石仏)。が、路地にかろうじて残っているという感じですっかり寂れています。この周辺は板橋宿の中心地なので、当時はこのお寺も人や馬で賑わったんでしょうね。

⑦板橋宿本陣跡

Img_0498 板橋宿の本陣は仲宿にあり、脇本陣は平尾宿、仲宿、上宿に1軒ずつありました。本陣は名主の飯田家が運営。かつてこの場所に97坪の屋敷があり、参勤交代の大名や公家が休憩したり宿泊したりしました。幕末、将軍家茂に降嫁した和宮も宿泊しています。



⑧文殊院

Img_0501Img_0503

 本陣・飯田家の菩提寺。山門脇にある延命地蔵は古くから信仰を集めていて、文殊院は地蔵堂の境内を広げて建立したといわれています。境内には閻魔堂や子の権現があるほか、墓地には遊女のお墓があります。

⑨板橋

Img_0504Img_0500

 板橋の地名の由来となった橋。この場所には平安時代から橋があり、江戸時代には太鼓橋が架かっていました。立ち寄った和菓子店に「板橋を渡った歴史上の主な人物」一覧が掲示されていたので写真に撮ってきました。

⑩縁切榎

Img_0509 江戸時代から知られる板橋宿の名所で、この榎の下を婚礼が通ると不幸になるという言い伝えから縁切信仰が生まれたようです。徳川家に降嫁した公家の姫たちはここを迂回し、和宮の降嫁の際には榎を菰で包んだといいます。現在の榎は3代目ですが、縁切信仰は今でも続いているようで、縁切を祈願する絵馬が奉納されていました。


 この後、板橋本町駅まで歩いて、旧中山道散歩は無事終了。お楽しみの宴会は池袋で盛り上がりました。梅雨の晴れ間で日差しが強く暑い1日だったので、ビールが美味しかったこと! そうそう、この日はおつり&αを大震災の義援金にしました。

 板橋にはこれといって名所が残っているわけでなく、正直言ってあまり期待していませんでしたが、やはり実際に歩いてみるとそれなりに面白いものです。歴史云々だけでなく、街歩きにはその土地の人々の暮らしを垣間見る楽しさがあります。さて、次はどこを歩きましょうか? ご一緒してくださった皆様、懲りずにどうぞよろしくお願いいたします。


| | コメント (8) | トラックバック (2)

2011/06/09

第27回お江戸オフ≪板橋宿≫(その1)

 先週末4日のオフは、昨年秋に雨で中止になった板橋宿を歩きました。甲州街道の内藤新宿、東海道の品川宿、日光街道(奥州街道)の千住宿に続く江戸四宿第4弾、中山道の第一宿です。

JR埼京線「板橋」駅13時集合→ ①近藤勇の墓 →②加賀藩下屋敷跡(加賀公園) →③東光寺 →④観明寺 →⑤板橋宿脇本陣跡→マックで休憩→⑥遍照寺 →⑦板橋宿本陣跡 →⑧文殊院 →⑨板橋 →⑩縁切榎 →都営三田線「板橋本町」 ⇒池袋「卯乃家」18時~

Img_0494 板橋宿は3つの宿場の総称で、日本橋寄りから平尾宿(現在の板橋)、仲宿、上宿(現在の本町)がありました。仲宿と上宿の境目の石神井川に、地名の由来となった板橋が架かっています。中山道は江戸と京を結ぶ山側の街道で、東海道のように川留めがなく日程を立てやすいことからよく利用されました。とくに女性は川越えの難所を避けるために中山道を通りました。

①近藤勇の墓

Img_0472_3Img_0474_2Img_0475

 新選組組長の近藤勇は板橋宿近くの刑場で斬首された後、首級は京都に送られ、体はこの地に埋葬されました(諸説あるが、ここの説明板にはそう書いてある)。左の供養塔は明治維新後、新選組隊員の永倉新八が建てたもの。土方歳三の名前も並べてあるところに、永倉の思いが表われているように思います。その永倉のお墓も同じ敷地内にあります。

Img_2474_2 近藤勇のお墓はここ以外にも、生家近くの龍源寺(三鷹市、写真右)や会津若松の天寧寺にあるほか、岡崎市の法蔵寺には首塚(伝)もあります。

Img_0493 話は前後しますが、近藤勇は流山で新政府軍に包囲されて出頭した後、⑤平尾宿脇本陣(写真左)の豊田家に20日間程監禁されていました。今はマンションになっています。


②加賀藩下屋敷跡(加賀公園)

Img_0482Img_0483




 板橋宿の北部一帯にはかつて22万坪におよぶ加賀藩の下屋敷がありました。加賀公園には屋敷の庭園の築山が残っています。加賀藩の上屋敷は本郷、中屋敷は駒込といずれも中山道沿いにありました。現在、板橋区には加賀という地名のほか、金沢橋、金沢小学校など、金沢加賀藩の名残があります。

③東光寺

Img_0484_3Img_0485

 このお寺には宇喜多秀家の供養塔(写真左)があります。豊臣秀吉の五大老の一人で、関ヶ原の戦いで敗れて八丈島に流された宇喜多秀家。秀家は84歳で死ぬまで八丈島で暮らしました。宇喜多家が許されたのは270年後の明治3年。宇喜多家の子孫は旧加賀藩前田家を頼って(秀家の正室は前田利家の四女豪姫)この地に寄居しました。供養塔はその時に子孫が建てたものです。
 宇喜多秀家をめぐる話はとても興味深い。秀家が亡くなったのはなんと4代将軍家綱の時代! 長寿は八丈島暮らしだからこそなんでしょうか。豪姫は秀家流罪の際、前田家に戻され、以後、他家に嫁ぐことなく八丈島の秀家に金品を贈り続けたそうな。キリスト教の洗礼を受けていたらしい。夫婦ともども、数奇な生涯ですね。
 右の写真は追分地蔵。江戸時代には平尾追分(現在、平尾交番がある場所)に鎮座していましたが、明治になって当寺に移されました。

④観明寺

Img_0491Img_0489_2

 加賀藩下屋敷から移築されたという赤門(写真左)があります。境内にある出世稲荷も下屋敷内にあったもの。この地は加賀藩との繋がりが深いですね。
 赤門に至る参道入口に寛文年間建立の庚申塔(写真右)が立っています。
 明治以降、成田山から不動尊を勧請し、出世不動と呼ばれて賑わいました。現在この辺りを「不動通り」と呼ぶのはこのお不動様に由来しています。

 おしゃべりしながらぼんやり歩いただけなのに、いざ記事にすると歴史散歩らしくなるのが不思議です。調べながら書くのは面倒でたまらないのにやめられない。ヘンな体質になってしまったようです。長くなったので、後半は別記事にします。

つづく


| | コメント (7) | トラックバック (3)

2011/06/07

特別展「写楽」(東京国立博物館)

Img 昨日、上野の「写楽」展に行ってきました。先週末のお江戸オフの記事も書かねばなりませんが、閉幕が迫っているのでとりいそぎご紹介します。

 この写楽展、写楽ファンはもちろんのこと、浮世絵に興味のある方必見です! 確認されている写楽の版画140図のほぼ全て(数点足りず)が公開されています。半数は国内から、半数は海外からここに集結。アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、オランダの美術館から里帰りした作品が時期ごと、芝居の演目ごとに並べられていて圧巻でした。震災で会期が変更されましたが、来日中止になったのは1点だけのようで、各美術館の協力には感謝するばかり。

 同じ図柄で摺りの違う作品の色の違いが興味深い。日本の国が所蔵しているものより、個人蔵や海外のもののほうが色がよいのが何とも皮肉に感じました。また、同じ役者を写楽と歌川豊国、勝川春英らが描いたものと並べてあるのも面白かった。写楽の大首絵はデフォルメが効いていて、役者の姿が目に浮かぶようです。歌舞伎に詳しかったらもっと楽しめるんだろうな……そこが少し残念でした。

 今週末12日までなので、興味のある方はお見逃しなく! 

Img_0002


| | コメント (4) | トラックバック (1)

2011/06/02

近江紀行(その7)石山寺、三井寺

 近江紀行もようやく最終回にたどり着きました。旅のしめくくりは南近江の名刹を2つ訪ねました。

<石山寺>

Img_0440110502_2




 紫式部はこの石山寺に参籠して『源氏物語』の着想を得たという伝説を聞き、ぜひ行ってみたかった場所です。こじんまりしたお寺を想像していましたが、斜面に広がる広い境内に風格のある堂宇が点在する大きなお寺でした。京都の清水寺や奈良の長谷寺と並ぶ観音霊場と知って納得。平安の女流作家たちに愛されたお寺にふさわしく、新緑やキリシマツツジなどの花が美しくて心が洗われました。春や秋にも訪ねてみたい!

Img_0453_2Img_0441

 下の写真の石は天然記念物の珪灰石。石山寺の名はこの岩盤の上に建っていることに由来しています。石の上方に見える多宝塔は、源頼朝の寄進で1194年建立された日本最古の多宝塔(国宝)です。本堂(国宝)は平安時代に建てられた正堂に、淀君が寄進した礼堂がつながっています。礼堂は清水寺のような懸造(かけづくり)。この本堂は場所的にも角度的にも写真に撮りにくく、まともな写真がありません。本堂の一角に「紫式部源氏の間」があり紫式部像が安置されています(写真は拝借)。

Img_0443031644




<義仲寺>

Img_0456

 石山寺から三井寺に行く途中、寄りましたが、月曜日でお休みでした。残念無念。

 この義仲寺には松尾芭蕉のお墓があるのです。芭蕉はこのお寺を愛し、たびたび滞在し、死後、遺言によってここに葬られました。義仲寺という名前からわかるように、木曽義仲がこの地で戦死後、巴御前が草庵を結んで供養したことに始まったとされています。

<三井寺>

Img_0457110502_3




 正式名称は園城寺(おんじょうじ)。壬申の乱で敗れた大友皇子の菩提を弔うためにその子が建立した寺で、本尊は大友皇子の父、天智天皇の念持仏の弥勒菩薩像。三井寺の通称は、天智・天武・持統三帝が産湯に用いた霊泉があるため「御井の寺」と呼ばれたことに由来します。国宝10件、重要文化財52件を誇る大寺院です。

 このお寺を訪ねたのは2度目。四半世紀前の桜の季節に比叡山から坂本に下りて大津に回ったことがありました。でも、記憶が残っていたのは琵琶湖が見える観音堂だけ。時間がなかったので端折ったのかもしれません。今回は広大な境内をゆっくり回れました。

 写真は順に、金堂(国宝)、三井の晩鐘、三重塔、観音堂。三井の晩鐘は平等院、神護寺とともに日本三名鐘のひとつ。300円で撞くことができるので、散策中何回か音を聴くことができました。心が清められる荘厳な音でした。

Img_0463Img_0462

Img_0464Img_0468




 以上で旅行記はおしまい。長々と読んでいただき、ありがとうございました。記録を書くのは面倒でもあり、旅行を再びたどれて楽しくもあり。こんなふうに旅行記を残せるのは、読んでくださる皆様のおかげと感謝しています。


| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »