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2012/05/18

長州紀行(その6)吉田松陰②

<藩校明倫館>

 明倫館の旧跡は明倫小学校の敷地内にあります。訪問したのは生徒の下校時間でしたが、小学校の受付で記名をして見学させていただきました。

 明倫館は1718年に創建され、1849年(嘉永2)にこの地に移転し、1867年(慶応3)まで長州藩士の子弟を教育しました。吉田松陰はなんと9歳で明倫館の兵学師範になっています。

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(左上から順に)
  観徳門:孔子廟の中門
  南門:旧正門(2005年に移築復元)
  有備館:武道場
  吉田松陰先生講学之跡碑

Img_1583 明倫小学校の校舎は昭和10年竣工の木造校舎。生徒は学年ごと、学期ごとに違う松陰の言葉を毎朝、朗唱しているそうです。今もなお松陰の精神が受け継がれているわけですね。

<野山獄・岩倉獄跡>

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 密航に失敗した松陰は萩に送還され、この場所にあった野山獄(写真左)に収監されました。そこでも仲間の囚人を教育したらしい。野山獄は上牢として士分の者を収容し、道路を挟んで向かい側の岩倉獄(写真右)は下牢として庶民を収容。松陰の従者金子重輔は岩倉獄で病死します。

 松陰は野山獄を出た後、実家に幽囚の身となり、前の記事の松陰神社の項に続くわけです。そのまま松下村塾で教育にいそしめば、穏やかな後半生を送れたかもしれませんが……日米修好通商条約を激しく非難し、老中暗殺を企て、再投獄されます。さらに、幕命により江戸に送られ、伝馬町の牢獄で絞首刑に処せられるのです。なんというか、一本気すぎて要領が悪いですね。それが松陰の松陰たるところなんでしょうけれど。

515voacsmbl__sl500_aa300__2 私の中の松陰のイメージは今やすっかり『風雲児たち』の寅次郎。右下の絵のほうね。絵はこんなだけど、松陰の熱い心が伝わってきます。途中までしか購入していないので、まだ松陰は死んでいません。この機会に読まなくちゃ!

 東京の松陰ゆかりの地を訪問したときの過去記事のリンクを貼っておきます。
   伝馬町牢屋敷: 収監され処刑された
   小塚原刑場: 処刑直後、埋葬された
   松陰神社: 高杉晋作らが改葬した


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コメント

明倫小学校の松陰の言葉の朗読内容をネットで見ました。
難しい!
こんな言葉を暗唱し朗読しているのですね。

この時代って一本気の男が多かったように思えます。
内股膏薬のようにあちこちはっつく男が多い昨今。
不器用でもかっこいいですね。

投稿: 陶片木 | 2012/05/18 22:51

>陶片木さん

 こんにちは。コメントありがとうございます。

 明倫小学校のサイトを見てくださったんですね。小学生ではたぶん意味ははっきりわからないけれど、その後の人生の折々に思い出すことがあるんじゃないかな。

 幕末の志士は薩長も龍馬も新選組も男気がある人物ばかりですよね。司馬遼太郎が書く「漢(おとこ)」ね。実は私、「内股膏薬」って言葉、知らなかったの。勉強になりました。どうもありがとう!

投稿: Tompei | 2012/05/19 13:04

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