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2012/06/29

第34回お江戸オフ≪佃島・霊岸島・日本橋≫(その4)霊岸島から兜町

 中央区新川地区はかつて霊岸島(霊巌島とも)と呼ばれていました。この地に霊巌寺があったことに由来する地名ですが、霊巌寺は明暦の大火後、深川に移転し、跡地は町地として埋立拡張されました。現在の地名「新川」は昭和20年代までこの地に流れていた新川に由来。

<徳船稲荷>

Img_1992 霊岸島と鉄砲洲(中央区湊)を隔てる亀島川の南高橋のたもとにある小さな社。かつて霊岸島にあった越前松平家の下屋敷に祀られていたお稲荷さんです。






<鉄砲洲稲荷>

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 江戸時代は鉄砲洲の北端にあたる江戸湊の入口にありましたが、明治になって現在地に移転しました。富士山の溶岩で築いた富士塚もその時に移転。本殿は昭和初期の建築で戦災の被害を免れています。

0781_2 江戸百の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」。江戸湊の船から帆柱越しに見た鉄砲洲稲荷(赤い塀)。絵の中の川は埋め立てられて現存しません。

 この辺りはお稲荷さんが多いですね。次もまたお稲荷さん。まさに、「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」です。





<於岩稲荷田宮神社>

Img_1997 『東海道四谷怪談』の主人公、お岩を祀るため、明治初期に芝居小屋に近いこの土地に創建された――そうです。

 於岩稲荷田宮神社は四谷にもありました。そして、同じく於岩稲荷を掲げているお寺・陽運寺とややこしい関係にあり、その謎について記事を書きましたっけ。wikipediaには、その四谷の田宮神社が明治の初めに火災で焼失して、ここに移ったと書いてありますが、こちらの案内板はそれには触れていません。移った後、また四谷でも再興したとか。うーむ、真実はいかに? 於岩稲荷は謎に包まれていますが、深く追究しないことにします。

 こじんまりした神社ですが、境内の手入れが行き届いていて、あじさいが涼しげに咲いていました。

<新川大神宮>

Img_2001 新川地区の産土神で、かつて新川沿いに多かった酒問屋の信仰が篤かった、と説明書きがありました。第二次大戦で焼失して、昭和27年に再建されたそうです。



<その他霊岸島界隈>

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霊巌島の碑、越前堀の石垣石

Img_2003 江戸初期の豪商、河村瑞賢の屋敷跡。瑞賢は明暦の大火の際、材木を買い占めて莫大な利益を得て、その財力で航路を開拓し、開運の発展に尽力しました。




 霊岸橋を渡って、茅場町から兜町に入ります。この日の終点、日本橋までもう一息。ビールの乾杯を目指し、気合いを入れ直して歩きました。

<日枝神社>

Img_2006 山王日枝神社の摂社で、かつては山王祭の御旅所でした。





<鎧の渡し跡>

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 江戸百の「鎧の渡し小網町」。 鎧の渡しは日本橋川の小網町と茅場町の間の船渡しでした。源義家が奥州平定の途中、ここで鎧を投じ龍神に祈りを奉げて暴風を鎮めたとも、平将門が甲冑を納めたとも、伝えられています。

<兜神社>

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 源義家が前九年の役の際、兜をかけて戦勝を祈願したという伝説を持つ「兜岩」(写真右)に因んで、明治初期の証券取引所開設にあたって創建されました。が、その一方で、平将門の兜を埋めて塚にしたところを兜山といい、それを祀ったという説もあります。鎧の渡しと同じく、源義家と平将門の両方の伝説があるのが面白い。この両名に関しては伝説がたくさんあるので真実を求めてはヤボというもの。とにかく、これが兜町の名の由来であることは確かです。


 ふぅ、駆け足で何とか終わらせました。この後、日本橋を渡って、コレド室町で宴会となったわけです。美味しいスペイン料理の写真の数々は他のメンバーのブログでご覧ください。お江戸オフ記録帳の更新はそのうちやりますので、もうしばらくお待ちの程。


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2012/06/28

第34回お江戸オフ≪佃島・霊岸島・日本橋≫(その3)中央大橋

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 石川島地区(大川端リバーシティ)と霊岸島地区(中央区新川)を結ぶ中央大橋。橋越しにスカイツリーが見えます。こういう景観は背景が青空だともっと映えそうですね。こんなところにこんな美しい橋が架かっていたとは知りませんでした。

 1993年、レインボーブリッジと同じ日に竣工した、バブル期の贅沢な建造物。設計はフランスのデザイン会社で、主塔は兜を意識しているらしい。上流側の中央部に、当時パリ市長だったシラク氏から贈られた「メッセンジャー」像があります。ズーム写真を撮ってみましたが、イマイチわかりにくい。わかりにくいけれど、ちょっと日本離れした雰囲気が漂っています。


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 ライトアップされるときれいだろうな、夜景を見てみたいな……ということで、翌日さっそく寄ってみました。こういうところだけ行動が早い。

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 永代橋とスカイツリーのブルーが調和して美しい! 隅田川を行きかう水上バスや屋形船の電飾もきれいでいい感じです。とはいえ、まだ見ぬ紫の雅バージョンのスカイツリーも気になります。1日おきということは、6月7月は奇数日が紫、偶数日が青、8月は奇数日が青、偶数日が紫。これは自分のための覚え書き。

0041_3 最後に、江戸時代の夜景の浮世絵を貼っておきましょう。江戸百の「永代橋佃しま」。永代橋の下から佃島を臨んで夜の白魚漁を描いたものです。150年前は今よりずっとたくさん星が見えたでしょうね。

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第34回お江戸オフ≪佃島・霊岸島・日本橋≫(その2)佃島

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 佃島は徳川家康が1590年に江戸入りした際、摂津(今の大阪)の佃村の漁師を江戸に移らせ、砂州を埋め立てて住まわせた島。右の地図の赤で囲んだ部分です。その隣りの青の部分が石川島。その地名は江戸初期に旗本の石川氏が拝領したことに由来しています。寛政年間には佃島と石川氏の屋敷地(青枠の北半分程)の間を埋め立てて人足寄場(無宿人や浮浪者の更生収容施設、鬼平の発案)ができ、その後石川島全体が人足寄場として使われました。

 現在は佃島も石川島も月島(明治25年埋立完成)と地続きです。でも、佃島の中を通る佃堀(左の写真)も町の区画割りも島の埋立時のまま。赤い欄干の佃小橋も昔のまま。この辺りだけ時間が止まったような雰囲気です。背後に見える大川端リバーシティの高層マンション群との対比が面白い。石川島は最先端の住宅に大変身しました。

<佃天台子育地蔵尊>

 ガイドブックに載っていない面白い場所を発見! 民家のすき間の狭い路地の入口に「佃天台子育地蔵尊」の幟が立っています。列を連ねて入ってみると、路地の途中に小さな地蔵尊がありました。石に刻まれたお地蔵様で寛永寺とつながりがあるらしい。

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Img_1974 拝んで写真を撮っていると、路地の反対側からガイドさんが先導して団体さんがやって来ました。この狭い場所にのべ20数名が集中。ガイドさんによると、お堂の中に生えている木の幹はパワースポットだそう。代わる代わる手の平を置いて、大銀杏のパワーをいただきました。右の写真のこんもり茂った緑はその大銀杏です。いつからここに立っているんだろう? 

<住吉神社>

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 移住してきた漁師の故郷、摂津の佃村(現・西淀川区佃)にあった住吉神社(現・田蓑神社)を分霊、勧請して建立されました。鳥居の陶製扁額の文字は有栖川幟仁親王の書。現在は月島、勝どき、豊海、晴海など埋立地域の氏神様です。

 6月30日の夏越祓の茅の輪がありました。この前、日枝神社で年越の茅の輪をくぐったような気がするのに、あれから半年が過ぎてしまった……。

 広重の江戸百から「佃しま住吉の祭」。今でも3年に1度の本祭りには大幟が6本立てられるそうです。その幟の柱や抱木は佃堀の水中に埋めておくそうな。あの立て看板(右の写真)の意味がわかりました。堀の左奥に神社の本殿が見えています。

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<その他佃島界隈>

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波除稲荷神社、佃煮の老舗「天安」

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海(今は隅田川の一部)に向かって立つ住吉神社の鳥居と石川島灯台跡、佃大橋(橋のたもとに佃の渡し跡碑があるはずだけど見逃した)

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2012/06/26

第34回お江戸オフ≪佃島・霊岸島・日本橋≫(その1)日本橋

 梅雨まっただなかのオフは、江戸博特別展「日本橋」見学と月島から日本橋までの散策。雨が降ったら江戸博だけにするつもりでしたが、散策にはちょうどよい曇天で予定通りのコースをしっかり歩きました。

13時江戸博「日本橋」→(大江戸線で月島へ)→マックでお茶(15時半出発)→佃島(佃天台子育地蔵尊・波除稲荷神社・住吉神社・灯台跡・石川島資料館など)→(中央大橋)→鉄砲洲稲荷、霊岸島(徳船稲荷・於岩稲荷・新川大神宮)→(霊岸橋)→鎧の渡し跡、日枝神社、兜神社→日本橋→コレド室町「Bikini PICAR」18時

Img この日の参加者8名中、江戸博からの参加は3名。日本橋の歴史400年を江戸博所蔵の浮世絵、絵巻、写真などで紹介する企画でしたが、皆さん、あまり興味がないようで……。歴史上の有名人特集や浮世絵展などの企画に比べるとインパクトには欠けるものの、一つの場所の変遷を見るのはそれなりに面白かったです。

 展示されていた浮世絵と今の日本橋の写真を並べてみましょう。この日最後にたどり着いた日本橋からご紹介します。

歌川広重「東海道五拾三次之内日本橋朝之景」
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葛飾北斎「富嶽三十六景江戸日本橋」
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川瀬巴水「日本橋(夜明)」
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 どう写真を撮っても、主役は首都高のよう。天下の日本橋の上に道路を造ったのは誰だ?! 東京オリンピックまでに首都高を完成しなければならない事情があったとはいえ、美しくない景観です。ま、私は空を仰げる日本橋の記憶がないので、この姿が日本橋という認識ですけど。そういえば、この周辺の首都高を地下化する構想が話題になったことがありましたが、その後どうなっているんでしょうね。

Img_2013 現在の石造二連アーチ橋は明治44年完成の19代目。江戸時代は火事が多く、のべ10回も全半焼したらしい。一方、今の橋は関東大震災と東京大空襲を耐え抜いた美しくも堅強な橋です。「麒麟の翼」は100年以上も東京の街を見守っているのです。

 下の写真は左から、東京市道路指標(橋の北西詰)、魚市場発祥の地碑(北東詰)、高札場跡の由来碑(南西詰)。道路指標は昭和18年まで橋の真ん中に立っていたもの。橋の北東、江戸橋にかけての一帯には江戸初期から関東大震災前まで魚河岸がありました(被災後、築地に移転)。高札場は法令や手配書などを掲示する場で、日本橋の高札場は最も重要かつ有名でした。

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 今まで何度となく日本橋を渡ってきたけれど、写真を撮ったのはたぶん初めて。かつてデパート黄金時代に、高島屋、東急百貨店(現・コレド日本橋)、三越のハシゴをするときによく渡りました。もう30~40年も昔のことです。

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2012/06/19

井の頭線のあじさい

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 先週井の頭線を利用したら沿線のあじさいが見事だったので、昨日、明大前から新代田まで2駅歩いてみました。うーむ、電車の中から見たほうが美しい! 線路沿いに道がないのでところどころで眺められるだけでした。

 あじさいの中を走る電車を撮ろうとしたら、タイミングが合わずに何度も失敗。コンデジだからね。上下線3、4本ずつ狙って、何とか撮れたのがこの2枚。写真としてはイマイチだけど、雰囲気は伝わるので貼っておきます。

 たまたま2枚とも電車の正面と横のラインが白ですが、ほかにピンクやブルーやパープルもあるんです。あじさいと同じ色の電車を撮りたかった。来年は時間のある時に腰を据えてチャレンジしてみよう。

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2012/06/14

明治神宮の花菖蒲

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 毎年この季節になると「明治神宮の花菖蒲を見に行きたいな」と思いつつ、なかなか実現できませんでしたが、今年は訪ねることができました。涼しくて曇っていた昨日は散策日和だったので、重い腰を上げた次第。お一人様のお出かけはちょっと気合いが要ります。

 御苑の案内所によると、この日の開花数は2401。6~7部咲きといったところでしょうか。写真を撮る人、写生をする人、吟行をする人で賑わっていました。平日なので中高年ばかりです。

 菖蒲田のある御苑は江戸時代、肥後藩加藤家、彦根藩井伊家の下屋敷の庭園だった場所で、明治になって宮内省の代々木御苑になり、明治天皇が昭憲皇太后のために花菖蒲を植えさせられたとのこと。明治天皇ゆかりの花菖蒲は高貴で雅な風情で凛としていました。白から紫の濃淡が緑の中で美しい。

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Img_1941 この菖蒲田の水の源がかの有名な「清正井」。数年前からパワースポットとして人気の場所です。一時はここの写真を撮るために順番待ちの列ができたそうな。昨日はたまに人がやって来るくらいでゆっくり眺められました。もう流行は去ったらしい。


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 明治神宮参拝は約30年ぶりか。社殿も鳥居も格調高く立派です。外国人観光客が多く、さまざまな言葉が聞こえてきました。


Img_1931 小田急線の参宮橋から歩いたら、ポニー公園がありました。そうそう、途中、井の頭線に乗ったら、沿線のあじさいが咲き乱れていました。どんどん数が増えているみたい。わざわざ乗って眺める価値があるくらい見事です。


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2012/06/12

長州紀行(その11)長府

 だらだらと続いたこの旅行記もようやく最終回です。

 下関から宇部空港に向かう途中、長府に寄りました。長府という地名は長門国の国府が置かれたことに由来し、江戸時代には長州藩の支藩・長府毛利藩5万石の城下町として栄えました。現在は下関市の一部。

 功山寺だけは何としても行きたいと思っていましたが、幸い、毛利邸と乃木神社も訪ねる時間がありました。練塀が続く城下町らしい小路をせかせか早足で歩くことになりましたけど。のんびり散策してみたい風情のある街並みでした。

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<功山寺>

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 鎌倉末期に創建された臨済宗の寺で、1320年建立の禅宗様建築の仏殿は国宝に指定されています。文久3年(1863)の八月十八日の政変で京都から追放された7人の公家のうち5人が翌年、この寺の書院に2ヶ月間潜居。同時期、高杉晋作は俗論派(幕府に恭順しようとする保守派)打倒のためにここ功山寺でクーデター(回天義挙)を起こしました。

 長州藩のこの時期の内乱は幕末の歴史の中でもとくにわかりにくい部分ですね。高杉晋作が死を覚悟の上で挙兵した場所、しかも国宝ということで訪ねたかったんです。さほど広くはないけれど、歴史を感じさせる静かなお寺でした。

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<長府毛利邸>

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 長府毛利家最後の藩主、14代の毛利元敏が晩年、東京から長府に戻って建てた邸宅。明治36年完成。明治天皇の行在所(旅先における仮宮)としても使われました。庭園の新緑が美しかった。

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<乃木神社>

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 明治の陸軍大将、乃木希典を祀った神社。希典は江戸詰の長府藩士の子として江戸の上屋敷(今の六本木ヒルズ)に生まれ、10歳の時、長府に転居しました。16歳で家出をするまで住んでいた住居が境内に復元されています(下の写真右)。そもそも、まずこの旧家が復元され、その5年後に乃木神社が造営されたとのこと。ちなみに、家出後は親戚である萩の玉木文之進宅(「その5」参照)に身を寄せ、明倫館で学んでいます。遺品などを展示した乃木記念館あり。

 乃木神社はこのほか、別邸があった那須、京都の明治天皇陵の近く、自刃した東京・赤坂の邸宅の隣地など、複数あります。この旅行の直後、赤坂の乃木神社に行く機会がありました(こちらの記事)。

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 これにて旅行記は終わり。2泊3日にめいっぱい詰め込んだ充実した旅行でした。とは言え、記録を書いていると、見逃した場所にいくつも気づき、下調べの甘さを反省することしきり。簡単に再訪できないのがつらいところです。

 長州を旅したからといって、ややこしい幕末維新の歴史がたちどころに理解できるようになったわけではありません。でも、萩の不便さ、城址の小ささ、関門海峡の狭さなどを実感し、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作たちの生まれ育った地に立って空気を感じられたことは意味のあることでした。

 長々と読んでいただき、ありがとうございました。旅行記を書き終えたら、次の旅を計画したくなりました。予定はないけれど。薩摩、土佐、会津、行きたいところは多々あります。京都はいつも私を呼んでいるし……。次の旅行記を書ける日が早くやってきますように!

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2012/06/06

長州紀行(その10)下関・門司

 5月中に終えたいと思っていたのに、6月になってしまいました。薄れゆく記憶をたどりながら、あと2回程書きたいと思います。

<唐戸市場>

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 下関と言えば、ふぐ、もとい「ふく」。下関では濁らずに「ふく」というそうな。春帆楼は無理にしても、どこかカジュアルな専門店でふぐのコースを食べたかったけれど、時間に余裕がなく断念。港の唐戸市場でふく汁とふくのお寿司を食べました。まだ8時半前なのに、市場の中は観光客でごった返し、席を確保するのも一苦労。市場の雑踏の中で食べたふく汁とお寿司の味は忘れられません。また食べたい!

<春帆楼・日清講和記念館>

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 下関港から程近い、赤間神宮に隣接する高台に「春帆楼」という割烹旅館があります。伊藤博文が命名し、日清戦争講和会議(1895年)の会場に決めた由緒ある旅館で、講和会議の際、彼がふぐを食べることを許可したと言われています。ゆえに、ふぐ公許第一号。ちなみに、ここに泊って、ふぐ料理を食べると1人35000円程……ちょっと気合いが要りますね。

 講和会議が行なわれた部屋を再現し、関係資料を展示した記念館(上の写真)が春帆楼の敷地内にあります。下の写真は、記念館横の伊藤博文、陸奥宗光の胸像と、講和会議時に中国の李鴻章の宿舎に使われた引接寺。

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<下関と坂本龍馬>

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 下関は坂本龍馬が半年ほど暮らした土地です。春帆楼の近くにあった本陣・伊藤邸の一室で慶応3年(1867)2月からお龍さんと暮らし、ここから上洛して暗殺されました。つまり、龍馬の「終の棲家」です。現在は「本陣伊藤邸跡」の碑(写真左)があるのみ。

 近くにはかつて遊郭として賑わった稲荷町がありました。龍馬のほか、高杉晋作や伊藤博文も出入りしたとか。今はまったく面影がありませんが、稲荷町の名に由来する小さなお稲荷さんが残っています。このほか、龍馬が下関に来て最初に訪ねた入江邸跡も探し当てましたが、立て看板だけなので写真は省略。

<亀山八幡宮>

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 下関の氏神様。大きな石の鳥居をくぐって石段を上がった高台にあります。

Img_1651_3Img_1652 ここには幕末、砲台が置かれました。久坂玄瑞の指揮によってこの亀山砲台から砲弾が発射され、馬関戦争の火ぶたが切られた、と案内板に書いてあります。でっかい「ふく」の像がありました。

<下関の洋風建築>

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 1900年完成の南部町郵便局。今も現役の郵便局です。その向こうに見えるのが旧秋田商会ビル。このビルは内部を見学できます。 一番の目玉の英国領事館は残念ながら工事中でした。

<関門連絡船>

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 唐戸界隈を散策して、海峡まつりを見物したら、ちょうどお昼頃になりました。ここから3キロ程離れた下関駅周辺にもいろいろ見所がありますが、車を置いてきたのでパス。連絡船で門司に渡りました。所要時間5分。水しぶきを上げてびゅんびゅん飛ばします。あっという間に門司港に到着。

<門司港>

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 九州最北端の街、門司です。明治初期に開港した門司港周辺には明治から大正にかけて造られた建物が残り、かつて賑わった港町の残り香が漂っています。その中にそそり立つ高層ビルは門司港レトロ展望室(写真左)。

 大正3年(1914)に建てられた門司港駅(写真右)はネオ・ルネッサンス様式の木造駅舎で、国の重要文化財に指定されています。関門トンネルが開通するまでは九州の鉄道の玄関口でした。ちなみに、まもなく復原工事が終わる東京駅丸の内駅舎ができたのも同じ大正3年。どちらも気品と風格があり美しい。

<旧門司三井倶楽部>

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 大正10年に三井物産門司支店の社交倶楽部として建てられ、国鉄の所有を経て、北九州市に譲渡され、平成初めに現在地に移築されました。ヨーロッパ伝統の木造建築で、内装はアールデコ調の装飾が施されており、往時の門司の繁栄を垣間見ることができます。重要文化財指定。

 大正11年にアインシュタインが宿泊した部屋が当時の状態で2階に展示されています。アインシュタインが門司に宿泊、しかも一企業の社交倶楽部に滞在……時代がしのばれますね。

 ここに入った目的は焼きカレー。1階がレストランになっていて、門司名物「焼きカレー」を食べられます。その待ち時間にアンイシュタインの部屋を見学したようなわけで……。ま、カレードリアという感じかな。バナナが入っていましたよ。門司港はバナナのたたき売り発祥の地なので、バナナ関連のものがたくさんあります。

<関門トンネル人道>

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 食事の後、門司に渡った第一目的の和布刈神社(「その9」参照)に向かいました。ここはタクシーを奮発。時は金なり、ですからね。そして、神社参拝後、関門トンネル人道を歩いて下関に戻りました。

 関門トンネルは3ルートあり。JR在来線が通る関門鉄道トンネル、新幹線が通る新関門トンネル、上が自動車道、下が人道の2重構造になっている関門国道トンネル。人道は地下55~60mまでエレベーターで下りて約800m歩きます。歩行者は無料、自転車やバイクは20円。のんびり歩いて15分弱で下関側に到着。広くはないけれど、思ったほど圧迫感はありませんでした。

 この後、下関の人道口に駐車したレンタカーで火の山展望台に向かったわけです。実は、ここに長時間駐車してはいけなかったらしい。そういう注意書きにこの時気づきました。すみません、7時間以上駐車してしまいました。ここに駐車できたおかげでこの日のスケジュールをこなせたので、海峡まつりに免じてお許しください。お祭りでなければ、高速専用の関門橋を走りたかった!


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