« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013/05/31

信濃紀行(その7)別所温泉・塩田平

その6の続き)

 旅行2日目の宿泊地は別所温泉。松代から1時間ほど走って、夕方、旅館にチェックインしました。今回のお宿はリーズナブルな旅館なので、まぁ、それなりでしたが、温泉につかって、お部屋でお食事ができて、のんびり休めました。温泉はゆで卵のような匂いがする硫黄泉。1日だけお肌がつるつるになりました。

 別所温泉は信州最古の温泉で、一説には『枕草子』であげられている三名泉の「七久里の湯」が別所温泉を指すとも言われています。鎌倉時代には安楽寺や北向観音が創建。神社仏閣が点在する別所・塩田平界隈はやがて「信州の鎌倉」と呼ばれるようになります。左下の写真は、安楽寺から別所温泉を望む。

Img_3543Img_3530_3

 吉川英治の『新平家物語』には、木曽義仲が愛妾の葵御前を連れて「大湯」(右上の写真)を訪れる場面があり、池波正太郎の『真田太平記』には、真田幸村が「石湯」に入湯する場面があるなど、さまざまな小説の舞台になっています。ちなみに私、遅ればせながら『真田太平記』を読書中。

 旅行3日目の午前中は別所温泉と塩田平のお寺を巡りました。きりっと晴れわたった空とひんやりした空気が気持ちのよい日でした。

Map1_2Map2

<北向観音>

Img_352020130502




 寺伝によれば、平安初期の創建で、鎌倉時代に塩田北条氏によって再建されました。現在の本堂は享保6年(1721)の建築。南面の善光寺で未来往生、北向観音で現生利益を祈願しなければ「片参り」になるといわれています(善光寺と飯田の元善光寺という説もあり)。

Img_3522_2Img_3523

 本堂、愛染堂(左上)、不動堂(右上)など、古色蒼然とした建物がひっそり建ち、歴史を感じるお寺でした。「愛染かつら」と呼ばれるカツラの巨木があり(左下)、縁結びの霊木とされています。昭和の映画『愛染かつら』のロケ地にもなったらしい。花も嵐も踏み越えて……♪ 手水舎の水があたたかい温泉でした!(右下)

Img_3525_2Img_3528


<安楽寺>

Img_354020130502_2




 伝承では天平年間、行基の建立ともいわれますが、歴史的に裏付けられるのは鎌倉時代、宋に留学した禅僧・樵谷惟仙が開山してから。鎌倉時代は北条氏の庇護によって栄え、多くの学僧を育てていました。国宝の八角三重塔は鎌倉末期の建立で、唯一現存する鎌倉時代の建物です。

Img_3535

 八角三重塔は日本に一つしかない木像の八角塔で、長野県で最初に国宝に指定されました。塔高18.75mとさほど高くはありませんが、どっしりとして風格のある塔でしばし見惚れました。

Img_3533aImg_3541


<常楽寺>

Img_354520130502_3




 常楽寺は北向観音の本坊で、平安時代、三楽寺の一つとして建立されました(三楽寺とは安楽寺、常楽寺、長楽寺。長楽寺は焼失)。本堂裏に弘長二年(1262)の刻銘がある石造多宝塔(左下)があり、重要文化財に指定されています。周辺には石塔多し(右下)。

Img_3548Img_3550


<別所神社>

Img_3552Img_3551

 古くは「熊野社」といい、紀州の熊野本宮大社から分祀されたと伝えられています。明治11年に別所神社に改められました。

 別所温泉の寺社をめぐった後、車で10分程走って塩田平へ。塩田平にはかつて、塩田北条氏3代の居城「塩田城」がありました。周辺には神社仏閣が点在し、今もなおその面影を残しています。

<中禅寺>

Img_355420130502




 記録の消失により、創建は不明。現在の本堂は享保19年に建立されました。鎌倉初期の建立と推定される薬師堂(左下)は重要文化財。右下は、薬師堂前の仁王門で、金剛力士像は平安末期のものです。

Img_3555Img_3556


<龍光院>

Img_3559_220130502_2




 塩田北条氏2代国時が父の初代善政の菩提を弔うために建立しました。塩田北条氏は鎌倉末期に3代50余年この地で栄えました。

<前山寺>

Img_356520130502_3




 空海が開創したと伝えられ、鎌倉末期に讃岐国善通寺の長秀上人が現在地に開山したといわれています。室町初期の建立と推定される三重塔は重文指定。「未完成の完成塔」といわれ、二、三重には窓や扉、廻廊、勾欄がありません。高さは19.5m。

Img_3564_3

 しだれ桜が咲き終わり、つつじが咲き始め、けやきの巨木が芽吹き、美しい季節です。週間予報を見て雨も覚悟していたけれど、晴れてよかった! 雨や曇り空では印象がまったく違ったはずです。

Img_3568Img_3567Img_3569_2


その8に続く)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/05/25

信濃紀行(その6)松代象山地下壕

その5の続き)

 これは城下町松代とはあまりに異質なので、別記事にします。


Img_3488

 以下、パンフレットより引用します。


 松代象山地下壕は、太平洋戦争の末期、軍部が本土決戦最後の拠点として極秘のうちに、大本営、政府各省等を松代に移すという計画の下に構築したものです。着工は昭和19年11月11日午前11時。翌20年8月15日の終戦の日まで、約9か月の間に当時の金で約2億円の巨費とおよそ延べ300万人の住民及び朝鮮の人々が労働者として強制的に動員され、1日3交替徹夜で工事が進められました。食糧事情が悪く、工法も旧式な人海作戦を強いられ、多くの犠牲舎を出したと言われています。

 松代地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3か所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10キロメートル余に及んでいます。全行程の75%の時点で終戦となり工事は中止されました。

 戦後は、訪れる人も少なく忘れ去られようとしていましたが、太平洋戦争の遺跡として多くの人々にこの存在を知っていただくため、平成元年から見学できるように整備したものです。

Img_3487Img_3490

 松代めぐりの一つとしてお気楽に足を伸ばしましたが、事実を知り現場を見て大きなショックを受けました。戦時中にこういう施設を作っていたことなど、まったく知なかったのです。ヘルメットを被って足を踏み入れましたが、数10mで戻ってきました(500m程歩けるらしい)。私はふだん霊気など感じないたちなのに、ぞくぞくとして怖かった。ある意味では原爆ドームよりも無気味でした。

 数百人から千人もの犠牲者が出たようで、入口付近には立派な追悼平和祈念碑が建っていました。こんなところに皇居や政府機関を移転しようと本気で考えた時点で、敗戦は決まっていたようなものなのに、その非現実的な計画のためにさらに大勢の犠牲者を出すなんて……戦争というものは悲惨でむごたらしく、ひたすら愚かしい。


Img_3493

 地下壕入口のすぐ近くにある恵明寺は、真田家3代藩主が開基したお寺。地下壕建設の一部始終を見つめてきたはずです。犠牲者の方々のご冥福と世界平和をお祈りしました。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013/05/24

信濃紀行(その5)松代②

その4の続き)

<象山神社>

Img_348420130501




 幕末の思想家で兵学者の佐久間象山を祀った神社です。象山は松代藩士。「象山」の号は松代の象山に因んだもので、普通は「しょうざん」と読みますが、地元では「ぞうざん」と呼ばれています。したがって、ここは「ぞうざん」神社。

 大河ドラマ『八重の桜』では奥田瑛二さんが好演していたし、おととしの『JIN』では市村正親さんが怪演していましたね。コミック『風雲児たち』の幕末編でも非常に印象的に描かれていて、私にとってはすごく気になる人物です。

 佐久間象山は、勝海舟や吉田松陰をはじめ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。吉田松陰のアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居を命じられますが、8年後に許され、その後、幕命により上洛。ペリー来航時は攘夷論者でしたが、後に開国論者に転向し、その活動中、京都で暗殺されました。

Img_3482Img_3483_2

 象山が蟄居していた住居「高義亭」(右上の胸像の後ろの建物、左下)と、暗殺されるまで暮らしていた京都の住居の茶室「煙雨亭」(右下)が境内に移築されています。高義亭には高杉晋作や久坂玄瑞が訪ねてきたこともあるそうな。全体を写した写真がないので、パンフレットの画像を貼っておきます。

Zo2Zo3

 神社の近くに「象山先生生誕地」碑があります(左下)。そして右は、一昨年訪ねた京都・三条木屋町の「遭難之碑」。こうして並べると感慨深い。

Img_3485Img_3223

Zo1 この後、象山記念館を見学。勝海舟の名の由来となった「海舟書屋」の額もありましたが、本物は両国の江戸博所蔵らしい。象山が発明した電気治療器や指示型電信機のレプリカが展示されていました。このほか、ガラスを製造したり、地震予知器を開発したり、マルチな才能を発揮したようです。

<蓮乗寺>

Img_3512Img_3513

 佐久間家の菩提寺。象山のお墓にお参りしました。

 前日、川中島で撮った銅像の写真を貼って、象山の話を終えます。

     Img_3425


<武家屋敷>

Img_3474Img_3495

 旧樋口家(左)、旧横田家(右)など、武家屋敷がいくつか残っていて内部まで見学できます。

 
 松代めぐりのスタンプ帳完成。こういうことにやけにハリキる人約1名。せっかくなので貼っておきます。


Sta4_2Sta3

Sta1Sta2


その6に続く)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/05/23

信濃紀行(その4)松代①

その3の続き)

 旅行2日目。長野のホテルを出て松代に移動。6時間ほど松代を散策しました。新緑の山々を眺めながらの城下町散歩は爽やかですがすがしかった。のどかな松代の町が気に入りました。

松代城跡→真田宝物館→真田邸→文武学校→旧樋口家住宅→象山神社→象山記念館→松代象山地下壕→昼食:「竹風亭」→長国寺→蓮乗寺→旧前島家住宅

(記事は、①真田関連、②象山関連、にざっと分けます)

   Img_2

<松代城跡>

Img_3459_2Img_3462_2

 松代藩は江戸時代、信濃に置かれた19の藩の一つで、松代はその城下町。松代城のはじまりは戦国時代に武田信玄が山本勘助に命じて築城した海津城で、第4次川中島の戦いでは信玄の本陣でした。やがて、海津城から待城→松城→松代城と改名。1622年に真田信之(幸村の兄)が入城後、明治維新まで真田家の居城でした。当時の城郭は明治の廃藩で取り壊され、現在の建物は平成16年に整備・復元されたばかり。無料で公開されています。たとえ復元でも、城跡はいにしえの繁栄をしのばせてくれます。

<旧松代駅>

Img_3469 昨年3月に廃線になった長野電鉄屋代線の旧駅舎。ホームのベンチなどもそのまま残されていて寂しい光景でしたが、そのうち撤去されてしまうのでしょうか。



<真田邸>

Img_3472Img_3473

 真田宝物館を見学した後、真田邸へ。幕末に9代藩主・真田幸教が建造した邸宅で「新御殿」と呼ばれました。明治以降は真田家の私邸として使用された後、昭和41年に松代町に譲渡され現在に至ります。六文銭(正式名称:六連銭紋)は真田家の家紋。

 この日はGWの谷間のせいか、あちこちで小学生の遠足に出会いました。ガイドさんの説明を熱心に聞き、メモを取る姿に感心。郷土史の学習なんでしょうね。

<文武学校>

Img_3476Img_3478

 8代藩主・真田幸貫が発案、9代幸教が造営して、安政2年に開校した藩校。建設当時からの建造物がそのまま残っており、剣術所(左下)、弓術所(右下)など、興味深く見学しました。このまま『八重の桜』のロケに使えそう。

Img_3477Img_3480


<長国寺>

Img_350820130501




 真田家の菩提寺、曹洞宗の禅寺です。上田から松代に移封された初代藩主・真田信之が、上田にあった菩提寺・長谷寺をこの地に移転し、同音異字の長国寺に改名しました。本堂がこんな外観をしたお寺がこの辺りには多いようです。

 本堂の奥に、初代・信之(左下)と4代・信弘(右下)の御霊屋があります。3代・幸道の御霊屋は開山堂として使用。拝観料を倍ほど払って特別拝観をお願いし、初代の御霊屋の内部も見せていただきました。狩野探幽筆とされる天井の絵をはじめ、繊細かつ華麗な彫刻など、目を瞠る美しさでした。当然ながら撮影禁止。破風の鶴の彫刻は左甚五郎作。東照宮のミニ版という印象でした。

Img_3498Img_3500

 真田家の墓所には歴代藩主やその子女の墓碑が並んでいます。初代信之のもの(中下)だけ鳥居つき。傍らには信之の父・幸昌と弟・幸村の供養碑(右下)がありました。真田幸昌・幸村親子は関ヶ原の戦いで徳川側につき、信之とは敵味方に分かれました。

Img_3503_2Img_3501Img_3502_3


Img_3496 昼食は、「竹風堂」の栗おこわ。ほくほくした栗がたくさん入っていて美味しかった。





その5に続く)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013/05/21

オスカルさま

 ついに、オスカルさまに変身してしまいました!


Img_4Img_0001Img_0002Img_0003


続きを読む "オスカルさま"

| | コメント (16) | トラックバック (0)

2013/05/20

信濃紀行(その3)善光寺

その2の続き)

 旅行記に戻ります。あれから早3週間、さっさと書かないと記憶がどんどん薄れてゆきます。

Img_345120130430




 善光寺は、日本の仏教が諸宗派に分かれる以前にできたので、無宗派の寺院です。本尊は、百済から渡来した一光三尊阿弥陀如来像で絶対秘仏。史料には残っていませんが、7世紀後半にはこの地にかなりの規模の寺院が建てられた形跡があるそうです。現在の前立本尊は鎌倉時代の作で、7年に1度、この前立本尊がご開帳されます。

 鎌倉時代には源頼朝が篤く信仰し、全国に善光寺信仰が広まりました。戦国時代には善光寺平(長野盆地の旧名)が武田信玄と上杉謙信の戦いの舞台となったため、寺は兵火により荒廃。この後、本尊は地方を流転することになりますが、行き先については諸説あり、武田、上杉、織田、徳川、さまざまな名が登場します。最後は、豊臣秀吉の手にわたり、秀吉の死の直前に信濃に戻されたとされています。

 江戸時代には徳川家の寄進を受けて復興を遂げ、善光寺参りの人々で賑わいました。「牛に引かれて善光寺参り」「一生に一度は善光寺参り」という言葉が生まれたほど人気があり、お伊勢参りと合わせて旅した人も多かったようです。

Img_3441Img_3439

 私にとっては2度目の善光寺参り。30年程前に戸隠の帰りに急いで寄って以来です。お参りの前にまず腹ごしらえ。「藤木庵」の揚げたての天ぷらと冷やしたおそばのコラボは絶妙でした。

 仁王門の先は参道の両側に宿坊が並んでいて、いかにも門前町らしい風情。山門をくぐると本堂のどっしりした伽藍が迎えてくれました。壮大な木造建築に圧倒されます。本堂の内陣を参拝し、いざお戒壇めぐりへ。これはお初です。手探りでこわごわ真っ暗闇を歩きました。がしかし、なんてこった、極楽の錠前には触らなかった! その存在をたった今、知ったのでした。ああ、またやってしまった。これだから自分がイヤになる。

 この失態にもっと早く気づけば、両国の回向院で行われていた善光寺出開帳に出かけたのに、それも昨日終わってしまった。二重のショック! まだ極楽に行くには早すぎるということにしておこう。そのうちまた行くしかない。

Img_3443Img_3453_3

 本堂を出て、境内を歩きまわった後、山門を拝観しました。桧皮葺の本堂に対して、この山門はサワラの木を使った栩葺(とちぶき)。楼上には文殊菩薩と四天王像が安置されています。寺額の善光寺の文字の中には5羽の鳩の姿が隠されていて、「鳩字の額」と呼ばれています。

 いったんホテルに戻って一息ついたあと、長野の街に繰り出しました。ほとんど冬支度で出かけたのに、寒いのなんの。震えながら長野駅まで歩きましたが、めぼしいお店が見つからず、結局ホテルのレストランで食事をしました。

Img_3452_2


その4に続く)

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2013/05/16

明治座 五月花形歌舞伎

Img_3609Img_3608

 旅行記に戻る前にもう一つ、先週出かけた歌舞伎のことを書いておきます。

 第3回歌舞伎教室は明治座。大御所勢揃いの歌舞伎座ではなく、中村勘九郎・七之助兄弟、市川染五郎、片岡愛之助と若手人気役者揃い踏みの明治座を選びました。そういえば、某読者より「歌舞伎教室って何?」という質問がありましたが、とくに深い意味はありません。歌舞伎見物と言うより、アカデミックに聞こえるでしょ?(笑) 歌舞伎を知るために10回は続けようと思います。それ以降も観るとしたら、趣味の世界に突入ね。

 今回は初めてイヤホンガイドを借りました。これが大正解! お富・与三郎の『与話情浮名横櫛』はともかく、一幕目の『実盛物語』はまったく知らない話なのに、内容がよくわかって楽しめました。演目のあらすじ、歴史や背景、役者の名、歌舞伎の約束事、音楽や唄、衣装や髪型など、さまざまなことをタイミングよく説明してくれます。幕間にも次の演目の説明や出演者のインタビューまで聞けます。"歌舞伎教室"では毎回借りることにしましょう。

 今回楽しみにしていたのは二幕目のお富さんでしたが、実は『実盛物語』のほうが面白かった。勘九郎さんの実盛がすごくよかったんです。見た目も格好よいし、内面からにじみ出る温かさに打たれました。「お父さんに似てるなぁ」としみじみ……勘三郎さんの歌舞伎は一度観ただけなのに姿が目に浮かびました。

 この演目は子役が活躍しますが、可愛くて上手で微笑ましかった。歌舞伎の楽しみは、子役がやがて成人して一人前の役者になり、結婚して子供が生まれて、その子が舞台に立つようになって――と、役者の生涯、血の繋がりを見守り、芸の成長や継承を見届けるところにもありそうですね。

 そして、『与話情浮名横櫛』。染五郎さんの与三郎は「水もしたたる」という形容がぴったりの若旦那、七之介さんのお富は粋で色っぽい芸者上り。二人がお互いに一目惚れする羽織落としの場面が印象的でした。二人の仲がばれてめった斬りにされる与三郎は痛々しい。が、傷だらけの姿がまた美しい。

Img_1915 有名な『玄冶店』の場面。歌舞伎では普通、『源氏店』と書いて「げんやだな」と読ませるそうですが、明治座は玄冶店があった人形町から近いので、この公演では本来の『玄冶店』となっています(右の写真は、人形町の玄冶店跡)。「もし、ご新造さんえ、おかみさんえ、お富さんえ、イヤサお富、久しぶりだなあ」 本物を初めて聞きました。来るぞ来るぞ、という興奮がいい。でも、意外にあっさりしていました。

 やっぱりビジュアルが映える若手の舞台はいいな。結局、ミーハーな私。勘九郎さんご出演予定の「真田十勇士」が気になります。来年だけどね。

 そうそう、明治座の前に水天宮(左)ができていてびっくりしました。社殿建替え工事のため、3月から移転しているそうです。まったく知りませんでした。もうこの社殿(右)を見ることはないんですね。

Img_3606Img_1925_2


------------------------------------------------------


 しがねえ恋の情が仇(あだ)、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当受け、拠所(よんどころ)なく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても、面(つら)へ受けたる看板の、疵が勿怪(もっけ)の幸いに、切られ与三(よぞう)と異名を取り、押借り強請(ゆす)りも習おうより、慣れた時代の玄冶店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲いもの、死んだと思ったお富とは、お釈迦様でも気がつくめえ。
 (『玄冶店』 与三郎の台詞)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/05/13

第41回お江戸オフ≪神田祭と「大神社展」≫

 旅行記を中断して、おととい5月11日のお江戸オフの記事を先にアップします。

 この日は41回のお江戸オフ史上3度目の本格的な雨。小石川を歩く予定を急遽変更して、上野・国立博物館の「大神社展」を見学後、神田祭に繰り出しました。「せっかく神田祭の日なのに、お参りにこないとはどういうことだ」と将門様に呼ばれたのかもしれません。祭礼中のみご開帳される将門様のご神体像の顔が恐かった。なので、まずは神田祭から。

14:00上野駅集合→国立博物館「大神社展」→(JR)→16:00お茶ノ水駅→神田明神→神田祭神幸祭見物→(丸の内線)→18:00宴会「北海道」後楽園店

Img_3617

 江戸総鎮守・神田明神の祭礼「神田祭」は江戸時代、徳川将軍が上覧する天下祭で、山車が江戸城中に入りました。天下祭と言われたのは神田祭と山王祭(今の日枝神社)だけ(一時、根津神社も)。かつては山王祭が旧暦6月、神田祭が旧暦9月に1年おきに交互に行なわれていました。現在、神田祭は隔年5月中旬に行われますが、一昨年は大震災の影響で中止になったため、今年は4年ぶりでした。

 それなのに、土砂降りゆえ、参拝客は少なめでお祭りとは思えない雰囲気。神田囃子が淋しげに響いていました。屋台からいい匂いが漂ってきても、降りがひどくて余裕がなく素通りするしかありません。2時間半以上立ちっぱなしだし、服もバッグも靴もびしょ濡れだし、「一服したい」と誰もが思ったに違いない……が、神社を出て秋葉原から神田方面に向かってさらに歩くのでした。

Img_3613Img_3618

 11日は鳳輦(ご神体を乗せた輿)が氏子町会を巡行する神幸祭の日なので、それを見たかったのです。事前にネット情報を調べて、神田駅周辺で見物するのが時間的によさそうに思いました。が、正確なコースを把握していないため、雨の中を右往左往。おまけに、神田明神でいただいた巡行マップは広げるそばから雨に濡れて使い物にならず。何度か、警官に尋ねてもはっきりした返答がなく途方にくれました。

Img_3624_2

 しかし、おかげさまで、ご覧の通り、至近距離で見ることができました。雨の中、朝8時から日本橋、大手町、神田地区を回ってきたそうです。神主さん、氏子の役員さん、バイトさん(?)、お馬さん、ポニーちゃん、お疲れ様です。あと2時間少々で神田明神に到着です。

 町会はお神輿をお神酒所の外に出して鳳輦を迎え、神主さんにお祓いをしていただきます。我々もそのおこぼれにあずかり、ありがたやありがたや。なにしろ、天下の神田祭! 知らず知らず、高揚、興奮しました。

Img_3619_2Img_3621_2Img_3625_2

Img_3626Img_3628Img_3631

 下の浮世絵は、歌川芳員「神田祭出しづくし」。江戸時代は豪華な山車が36台続いたそうです。一番の山車は大伝馬町の「諫鼓鶏(かんこどり)」。牛(作り物)が引く山車に鶏が乗っているのはその名残のようです。上の写真では切れてしまって映ってないので、お仲間のhichaさんの記事でご確認ください。

 現在も鳳輦の後ろに附け祭の山車が続くのですが、それは中央通りを進み、狭い路地には入ってきません。つまり、見逃したわけ……残念。とはいえ、お江戸オフのお仲間と一緒に神田祭の鳳輦巡行を見られて満足しています。雨が降ってよかった!

Kanda 


Img_3610 順序が逆になりましたが、「大神社展」もとても充実していて、行った甲斐がありました。国宝、重文だらけです。会期が後期にあたり、なじみのある厳島神社や鶴岡八幡宮の宝物を見られて嬉しかったけれど、前期展示の春日大社や熊野速玉大社のものも見たかった。一番印象に残っているのは、厳島神社に奉納された安徳天皇の産着とその内衣。神像大集合のチラシを貼っておきます。神社パワーをふんだんにいただいて、内なる力をフル充電できた1日でした。

Jinja3Jinja4


| | コメント (9) | トラックバック (3)

2013/05/10

信濃紀行(その2)川中島

その1の続き)

Img_3429_220130430




 おととしは関ヶ原、去年は壇ノ浦、そして今年は川中島。偶然、日本史にはずせない古戦場が並びました。川中島は、関越道の長野ICから善光寺に向かう途中にあります。島ではなく、犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名なんです。知らなかった。抱いていたイメージとだいぶ違う。

 第4次川中島の戦いで武田信玄が本陣を置いたとされる場所に八幡社があり、その周囲が八幡原史跡公園として整備されています。武田軍はこの八幡社の前で敵兵の首実検を行ない、勝鬨を上げたそうな。上杉謙信・武田信玄一騎打ちの場所であることを伝える「三太刀七太刀之跡」碑(左下)があります。上の写真の石像はその対決場面。

 また、武田方の高坂弾正が辺り一帯の戦死者の遺体を敵味方なく集めて葬ったとされる首塚(右下)があります。立て看板によると、この話を知った謙信は感激して、後に塩不足に悩む武田氏に塩を送ってこの恩に報いたとのこと。これが「敵に塩を送る」という言葉の始まりだそうです。「へぇ!」と思ったので記しておきます。

Img_3434_2Img_3427_2

 境内にあった合戦図を上下逆にして貼ってみます(地図と逆ではわかりにくい)。左上が北です。うーん、合戦図の現在地と地図上の史跡公園が一致しない。とにかく、上杉は東側、武田は西側。翌日、松代城址(合戦図では右下の海津城)から北方向を撮った写真も貼っておきます。川中島地区の雰囲気は伝わるかと……。

Img_3430_2Knj

Img_3463


 史跡公園から南下して、千曲川のほとりにある典厩寺に寄りました。ここには第4次の戦いで戦死した信玄の弟、武田信繁のお墓があります。典厩とは信繁の通称。

Img_3436Img_3437

Img_3435_3 閻魔堂に鎮座する閻魔像は江戸・万延年間の制作。高さが2丈(約6m)あり、日本一大きい閻魔像らしい。


その3に続く)


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2013/05/07

信濃紀行(その1)

Img_3557

 好天に恵まれたGWでしたね。皆様、リフレッシュできましたか?

 連休の谷間に信州に行ってきました。予算の都合でマイカーの旅ゆえ、距離的に長野あたりが妥当か、というやや消極的な選択でしたが、善光寺に詣り、松代と上田を回って、なかなか充実した旅でした。

 え、シブイ? 私もつくづくそう思う。信州ならやっぱり、軽井沢や蓼科や上高地でしょう。本来の私はそういうリゾート体質なのに、ここ数年、微妙な変化が……これ、歴女ってヤツ?!

 とにかく、お寺とか城址とか資料館とか回ってきたので(笑)、備忘録としてだらだら記録します。ごく少数の興味のある方はお付き合いくださいませ。

4月30日

朝、車で自宅出発

(関越道・長野IC)

川中島

長野・善光寺

長野泊

5月1日

松代散策(松代城跡、真田宝物館、文武学校、
     象山神社、象山記念館、長国寺など)

上田・別所温泉

別所泊

5月2日

別所温泉(北向観音、安楽寺、長楽寺)

塩田平(前山寺、中禅寺)

生島足島神社

上田城

真田の郷(真田氏歴史館、長谷寺)

(関越道・上田菅平IC)

自宅

 ちなみに、来月観劇予定の宝塚花組『戦国BASARA』の主役が真田幸村であることはあまり影響していない……はず。

その2に続く)

Img_3595


| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »