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2013/12/24

第44回お江戸オフ≪忠臣蔵討ち入り≫その3

こちらの続き)

④汐留橋→金杉橋

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 ティータイムで体力と気力を回復した私たちはペースを少し上げてまた歩き始めました。築地本願寺(左の写真)の前を通り、がんセンター、新橋演舞場の横を北上し昭和通りを左折して第一京浜に向かいます。右の写真は汐留付近で見つけた「仙台藩伊達家上屋敷の土台」。伊達家上屋敷は上の古地図の「松平陸奥」の部分です。

<汐留橋跡>

Img_4359 汐留橋は今はありません。汐留橋が架かっていた外堀は埋め立てられ、首都高と昭和通りが交差しています。その交差する場所に長い歩道橋がありますが、そのうち海岸通りを渡る歩道橋が汐留橋にあたります。左の写真を撮るのに立っている場所です。汐留橋は後に蓬莱橋と呼ばれるようになったので、ここを蓬莱橋の交差点といいます。
 何故、こんなことをぐだぐだ書いているかというと、我々は昭和通りを渡る歩道橋が汐留橋と勘違いし、それを渡るためにわざわざ遠回りをしたからです。酔狂もここまでくると立派でしょ? 間違えなければね。

 第一京浜に出たら、あとは一本道なのでひたすら歩くのみ。すたすたすたすた。


<日比谷神社>

Img_4363 思いがけず日比谷神社と再会しました。4年前のオフで遷座前にお参りして以来です。その時の記事はこちら



<金杉橋>

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 金杉橋が架かる外堀は今も残っていて、屋形船が数珠つなぎに係留されていました。この橋を渡るといよいよ三田に入ります。


⑤三田→泉岳寺

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<薩摩藩蔵屋敷>

Img_4368 幕末に西郷隆盛と勝海舟が江戸開城の交渉を行なった薩摩藩田町藩邸。この場所をはじめ、三田周辺を歩いたときの記事はこちら



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 あたりがだんだん薄暗くなり、それに比例するように足取りが重たくなった大木戸跡付近で、義士祭パレードの行列に追いつきました。下調べでは3時頃泉岳寺入りすると読んだ気がしますが、なんというタイミングのよさ。興奮して疲れも吹っ飛び、必死にカメラを向けましたが、写真はどれもぶれていました。やっぱり疲れていたのね。

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 泉岳寺周辺はパレードを見物する人でごった返していました。義士隊を見送った後、屋台が並んだ狭い参道を押しあいへし合いしながら進み、泉岳寺の山門にたどり着いたのはちょうど5時頃。ここでの第二集合に何とか間に合いました。全行程踏破、ついにやりました!

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 義士隊到着で最高潮に盛り上がっている泉岳寺に行かれたのはよかったけれど、そのあおりで四十七士の墓所にお参りできなかったことが心残り。浅野内匠頭のお墓に討ち入りの報告をして(笑)、四十七士の墓石にお線香を供えたかった。ちょうど義士隊が参拝中で、一般客は長蛇の列を作って待たされていました。宴会の時間が迫っているので、待っているわけにはいかなかったのです。

 この後、地下鉄で内幸町に出て、「近どう」にてもんじゃ忘年会。帰宅後の万歩計の数字は24794でした。吉良邸から泉岳寺までは2万歩というところでしょうか。念願のコースを義士祭当日に歩けて、印象深いオフになりました。

 今年も一年間、一緒に歩いてくださった皆様、オフの記事を読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。来年もまたよろしくお願いいたします。


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2013/12/20

第44回お江戸オフ≪忠臣蔵討ち入り≫その2

こちらの続き)

②万年橋→永代橋

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<万年橋>

Img_4339 小名木川にかかる最初の橋です。以前渡った時の記事はこちら




<上之橋跡>

Img_4342 当時は仙台堀が隅田川にそそぎ、上之橋が架かっていました(1984年暗渠化)。本所深川地区を東西に走る堅川、小名木川、仙台堀は江戸初期に開削された運河で、南北に通じる大横川と横十間川とともに幹線水路として物資の運搬に利用されました。


<ちくま味噌>

Img_4343 元禄初年に「乳熊屋作兵衛門商店」として開業した味噌醸造店が現在も同じ場所で営業しています。ちくまは「千曲」ではなく「乳熊」なんですね。
 乳熊屋の初代作兵衛は赤穂浪士・大高源吾と俳諧の友だったよしみで、討ち入り後の浪士一行を店に入れて甘酒粥をふるまいました。そのことを記した「赤穂四十七士の休息の地」碑が敷地内に設置されています。
 幕末には勝海舟や西郷隆盛とゆかりがあったそうだし、歌舞伎に「味噌はちくまにかぎるのう」という台詞もあるらしい。こんな場所に創業300余年の由緒あるお味噌屋があるとは知りませんでした。
 義士祭のこの日はお店の前で道行く人に甘酒をふるまってくださる粋な計らい。四十七士の気分になって、おいしい甘酒をいただき、感謝感激でした。泉岳寺までの道のりの途中でなければ、お味噌を買いたかった。

<永代橋>

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 永代橋は、徳川綱吉の50歳を祝して、元禄11年に架けられた隅田川4番目の橋。四十七士が渡ったのは、橋ができて4年後のことです。当時の永代橋は現在の橋より100m程上流にありました。
 現在の橋は4代目。ライトアップされると美しいんですよね(夜景の写真はこちら)。右の写真は永代橋の上から上流を写したもの。スカイツリーが見えます。

<豊海橋>

Img_4347 最初の永代橋の対岸は箱崎町側だったため、赤穂浪士一行は豊海橋を渡って霊巌島に入りました。現在の永代橋は霊巌島に架かっているのでこの橋は渡りませんが、写真だけ撮ってきました。


③霊巌島→高橋→鉄砲洲(築地)

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<堀部安兵衛武庸の碑>

Img_4350 赤穂浪士のコースから少しはずれますが、浪士の一人・堀部安兵衛の碑が亀島橋のたもとにあるので寄りました。武庸(たけつね)は安兵衛の本名。八丁堀に住んでいたことがあるらしい。

<高橋>

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 かつて霊巌島から鉄砲洲に入るには高橋と稲荷橋を渡りました。稲荷橋がかかっていた川は埋め立てられ、現在は陸続きです。稲荷とは、橋を渡ってすぐのところにあった鉄砲洲稲荷のこと。鉄砲洲稲荷はその後、現在の場所に遷座しました(こちらの記事参照)。

<浅野内匠頭邸跡>

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 藩主・浅野内匠頭の刃傷事件によって赤穂藩がお家断絶となり、領地や屋敷が没収されるまで、浅野家上屋敷があった場所。四十七士にとっては、亡き主君が1年半前まで暮らしていた場所なので、格別の思いを抱いてこのあたりを歩いたことでしょう。


 この近くのドトールでようやくティータイムとなりました。まもなく3時――押している! 2時半までには着いて3時まで休憩の予定だったのに。15:15出発と決め、熱いコーヒーと甘いスイーツに癒されました。まだ半分、歩かなければなりません(汗)。


つづく


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2013/12/18

第44回お江戸オフ≪忠臣蔵討ち入り≫その1

 12月14日といえば、忠臣蔵の討ち入りの日。今年最後のお江戸オフがたまたま12月14日に決まって、お江戸三婆(三人娘改め)協議の結果、両国の吉良邸跡から高輪の泉岳寺までの討ち入り凱旋コース(約12キロ)を歩くことにしました。

 3人の愛読書、宮部みゆきさんの『平成お徒歩日記』の最初の章がこのコースで、以前から「歩いてみたいね」と話していたんです。とはいえ、いざとなると及び腰になる三婆、いや二婆(約1名はいつだって前向き)。でも、この先これ以上の好機はなさそうなのでチャレンジすることに決めました。いつ歩くの?――今でしょう!(2013流行語大賞受賞語使用) こんな酔狂な企画にお付き合いいただいたメンバーに感謝しています。

JR両国駅12:30集合→吉良邸跡→→お茶「ドトール築地聖路加」15:15出発→→泉岳寺17:00着→(地下鉄)→宴会「もんじゃ近どう新橋店」18:00~

 コースは下の地図のとおり。元禄15年12月15日早朝(赤穂浪士は14日夜に集合して、翌朝吉良邸を襲撃した)、討ち入りを果たした大石内蔵助以下、四十七士が吉良上野介の首級を掲げて、浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺まで歩いた道筋です。

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 「御船蔵の後通り、永代橋より鉄砲洲へかかり、汐留橋筋、金杉橋、芝へ出候て、泉岳寺へ参候」という赤穂藩士の記録が残っており、それから推定したコースです。下の古地図は、Google Earth の1858年の地図。

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 以下、Google Earthの古地図で場所を確認しながら、ルートをたどります。凱旋ルートはグリーンのマーク、それ以外は白の○。

①吉良邸→一之橋

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<吉良邸跡>

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 討ち入りがあった元禄時代には敷地2550坪の広さでしたが、現在は「本所松坂町公園」としてほんの一部が残るのみ。討ち入り後、幕府に没収され、その後、松坂町になりました。

 以前、訪ねた時は閑散として薄気味悪かったけれど、「義士祭」のこの日は、付近一帯の通りに出店が並び、お祭りというよりバーゲン会場のような賑わいでした。吉良上野介はあちらで苦笑していることでしょう。初めてご対面した上野介像は2011年に造られたそうです。

<回向院>

Img_4325c_2 討ち入り後、浪士一行は回向院に集まることになっていましたが、関わりを持ちたくない寺側に断られ、そのまま泉岳寺を目指しました。回向院については、前回訪問時の記事に詳しい説明あり。

<一之橋>

Img_4335 古地図を見るとわかるように、最も近い両国橋を渡るのが順当ですが、15日は幕府の登城日のため、江戸の中心部を通ることを避け、一行は南下して堅川にかかる一之橋を渡りました。

<前原伊助宅跡>

Img_4333 吉良邸と一之橋の間で立て看板を見つけました。浅野家家臣・前原伊助は刃傷事件後、吉良家の屋敷替えに伴ってこの地に移り住み、「米屋五兵衛」と偽名を使って店を営みながら、吉良家の動向を探ったと記されています。

<江島杉山神社>

Img_4337 江戸時代、盲人を統括した総禄検校・杉山和一の屋敷跡地。和一は徳川綱吉を治療して、その褒美としてこの土地を拝領し、江ノ島弁財天を勧請したと伝えられています。元禄6年に拝領したそうなので、討ち入り時、和一はここに住んでいたことになりますね。上の古地図には「弁天」と書いてあります。


つづく

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2013/12/13

歌舞伎座十二月大歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』

 今年1月から続いた私的歌舞伎教室も残すところあと2回になりました。ラスト2回は『仮名手本忠臣蔵』で締めくくります。

 歌舞伎座では先月から『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言が月替わりの配役で上演中。先月はベテラン、今月は若手中心の配役で、幸四郎、玉三郎、染五郎、海老蔵、菊之助、七之助ら、豪華な面々が演じています。

Img≪昼の部≫

大 序  鶴ヶ岡社頭兜改めの場
三段目 足利館門前進物の場
      同  松の間刃傷の場
四段目 扇ヶ谷塩冶判官切腹の場
      同  表門城明渡しの場
浄瑠璃 道行旅路の花聟

≪夜の部≫

五段目 山崎街道鉄砲渡しの場
      同   二つ玉の場
六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
七段目 祇園一力茶屋の場
十一段目 高家表門討入りの場
       同 奥庭泉水の場
       同 炭部屋本懐の場

 昼夜を通しで観ると、11時から21時まで10時間もかかるので、体力も集中力もとても続きません。2日に分けて、昼の部は昨日12日に観劇、夜の部は来週17日の予定です。

 まずはウンチクを少々。この演目は忠臣蔵といっても、元禄時代に起きた浅野内匠頭の刃傷事件や赤穂浪士の討入りをそのまま舞台化したものではなく、時代背景を南北朝時代の『太平記』の世界に借りています。実際に起きた事件を舞台化することを幕府が禁じていたので、設定を換えているわけ。実在の人物を『太平記』の登場人物の名に置きかえたり、独自に創作したりしています。
 吉良上野介 ⇒ 高師直
 浅野内匠頭 ⇒ 塩冶判官
 大石内蔵助 ⇒ 大星由良之助

 刃傷事件と討入りを下敷きにした筋立てですが、本筋とはあまり関係ないエピソードがかなりの部分を占めています。忠臣蔵だけど、忠臣蔵じゃない、と言ったらいいか。ちなみに、仮名手本とは、四十七士をいろは四十七文字になぞった名題。人形浄瑠璃の演目として創作・上演され、人気を博したため、まもなく歌舞伎でも上演されるようになりました。

昼の部観劇(12月12日)

 歌舞伎の何が面白いって、昔からの慣習が今も変わらず続いていること。理屈とか効率ではなく、あくまでも伝統重視であること。今回でいえば、大序の演出はとても興味深く印象的でした。

 幕開きの前に口上人形が登場し、「えっへん、えっへん」と言いながら、全配役を紹介します。その後「とーざい、とーざい」という声がして、定式幕が開けられますが、舞台上の人物はみな人形のように顔を伏せています。かつて時代物の序段はみなこのように始まったそうですが、現在は『仮名手本忠臣蔵』でしか見られません。

 前半の主な人物が鶴ヶ丘八幡宮に勢揃いする大序から始まり、「松の廊下」の刃傷事件にあたる三段目、塩冶判官の切腹と城明渡しの四段目と続き、最後におかると勘平の道行があります。道行とは、旅する場面を所作(踊り)で表現したもの。本来は三段目の最後にあった場面を道行風にアレンジして、荘重な四段目の後につける慣習だそうです。

 この道行の海老蔵さんと玉三郎さんが綺麗でね。夜の逃避行なのに舞台は明るく桜や菜の花が咲き乱れていて、切腹と城明け渡しの場面の暗さや重さを払拭できるのです。ま、宝塚のフィナーレみたいなものですね。

 海老蔵さんは休演の三津五郎さんの代役で高師直を演じていて、いじめたり言い寄ったり熱演していました。が、これはやっぱり三津五郎さんで観たかった。三津五郎さんはその後、どうされているか、心配です。11月の高師直役の仁左衛門さんも休演されたし、歌舞伎界は何故こんなに病人が続くんでしょう。

 師直(海老蔵)と判官(菊之助)、若狭之助(染五郎)の三人の見栄の場面が色彩的にもルックス的にも美しかった。有名な「由良之助はまだか」は判官の切腹前の台詞だったのですね。納得しました。途中、少々眠くなりながらも何とか4時間半頑張りました。歌舞伎は長すぎる!

夜の部観劇(12月17日)

 やっぱり、忠臣蔵は討ち入りに向かう後半のほうが断然盛りあがりますね。

 「色にふけったばっかりに」悲劇的な最期を迎える勘平役の染五郎さんは美しさの中に哀れさとはかなさを誘うし、七之助さんのおかるもいじらしくていいコンビでした。

 続く祇園の廓の場面の玉三郎さんのおかると海老蔵さんの兄・平右衛門はとびきり美しく、緩急自在の演技が素晴らしく息もぴったりで、目にも満足、胸にも迫る至福のひとときでした。今年いろいろな役の海老蔵さんを観ましたが、この役に一番心を動かされた気がします。

 この日、帰宅後、中村獅童さんのお母様が亡くなったことを知りました。獅童さんは普段通りに出演され、切れのある殺陣を見せていましたが、急なことでお辛いでしょうね。ご冥福をお祈りいたします。

 火消し装束が格好いい浪士たちの勝鬨に送られて歌舞伎座を出ると、銀座の街は華やかなイルミネーションに彩られており、舞台の余韻にひたりながらルンルン気分(死語)で歩きました。

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2013/12/02

生田緑地の紅葉2013

 今日から師走。年賀状が発売されても、街のイルミネーションが始まっても、「まだまだ…」とたかをくくっていましたが、そうも言っていられなくなりました。しょうがない、年末モードに入るとするか。

 その前に、今年の紅葉の見納め。昨日、多摩川の向こう側の生田緑地に行ってきました。川を渡って神奈川県川崎市になるけれど、距離的には4キロ程で車でひとっ走り。市内の深大寺周辺とは一味違う晩秋の景色が楽しめました。

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 今年は紅葉の進み具合が早かったうえ、このところ風の強い日が多かったせいか、見頃は過ぎてかなり落葉していました。が、一部の真っ赤な紅葉が待っていてくれた! これぞ、ザ・紅葉! こういう色に染まるモミジは木によるのか、環境によるのか? 来年もまた来て確認してみたい。

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 民家園の古民家を背景にすると趣きがあるでしょう? 川崎とは思えませんよね。下の写真は、紅葉するメタセコイヤに囲まれて、何故か青いままのモミジが残っていて、幻想的な雰囲気を漂わせていました。

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 そういえば、途中から急に鼻がムズムズしだして花粉症らしき症状が始まりました。何かに反応した?! 数日前にもくしゃみを連発しましたが、秋の花粉症でしょうか? 今まで秋はこんなことなかったのにイヤーな感じです。


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