第44回お江戸オフ≪忠臣蔵討ち入り≫その2
(こちらの続き)
②万年橋→永代橋
<万年橋>
小名木川にかかる最初の橋です。以前渡った時の記事はこちら。
<上之橋跡>
当時は仙台堀が隅田川にそそぎ、上之橋が架かっていました(1984年暗渠化)。本所深川地区を東西に走る堅川、小名木川、仙台堀は江戸初期に開削された運河で、南北に通じる大横川と横十間川とともに幹線水路として物資の運搬に利用されました。
<ちくま味噌>
元禄初年に「乳熊屋作兵衛門商店」として開業した味噌醸造店が現在も同じ場所で営業しています。ちくまは「千曲」ではなく「乳熊」なんですね。
乳熊屋の初代作兵衛は赤穂浪士・大高源吾と俳諧の友だったよしみで、討ち入り後の浪士一行を店に入れて甘酒粥をふるまいました。そのことを記した「赤穂四十七士の休息の地」碑が敷地内に設置されています。
幕末には勝海舟や西郷隆盛とゆかりがあったそうだし、歌舞伎に「味噌はちくまにかぎるのう」という台詞もあるらしい。こんな場所に創業300余年の由緒あるお味噌屋があるとは知りませんでした。
義士祭のこの日はお店の前で道行く人に甘酒をふるまってくださる粋な計らい。四十七士の気分になって、おいしい甘酒をいただき、感謝感激でした。泉岳寺までの道のりの途中でなければ、お味噌を買いたかった。
<永代橋>
永代橋は、徳川綱吉の50歳を祝して、元禄11年に架けられた隅田川4番目の橋。四十七士が渡ったのは、橋ができて4年後のことです。当時の永代橋は現在の橋より100m程上流にありました。
現在の橋は4代目。ライトアップされると美しいんですよね(夜景の写真はこちら)。右の写真は永代橋の上から上流を写したもの。スカイツリーが見えます。
<豊海橋>
最初の永代橋の対岸は箱崎町側だったため、赤穂浪士一行は豊海橋を渡って霊巌島に入りました。現在の永代橋は霊巌島に架かっているのでこの橋は渡りませんが、写真だけ撮ってきました。
③霊巌島→高橋→鉄砲洲(築地)
<堀部安兵衛武庸の碑>
赤穂浪士のコースから少しはずれますが、浪士の一人・堀部安兵衛の碑が亀島橋のたもとにあるので寄りました。武庸(たけつね)は安兵衛の本名。八丁堀に住んでいたことがあるらしい。
<高橋>
かつて霊巌島から鉄砲洲に入るには高橋と稲荷橋を渡りました。稲荷橋がかかっていた川は埋め立てられ、現在は陸続きです。稲荷とは、橋を渡ってすぐのところにあった鉄砲洲稲荷のこと。鉄砲洲稲荷はその後、現在の場所に遷座しました(こちらの記事参照)。
<浅野内匠頭邸跡>
藩主・浅野内匠頭の刃傷事件によって赤穂藩がお家断絶となり、領地や屋敷が没収されるまで、浅野家上屋敷があった場所。四十七士にとっては、亡き主君が1年半前まで暮らしていた場所なので、格別の思いを抱いてこのあたりを歩いたことでしょう。
この近くのドトールでようやくティータイムとなりました。まもなく3時――押している! 2時半までには着いて3時まで休憩の予定だったのに。15:15出発と決め、熱いコーヒーと甘いスイーツに癒されました。まだ半分、歩かなければなりません(汗)。
(つづく)
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