見沼通船堀オフ(その1)
さいたま在住の桜桃さんのお声かけで、昨日このイベントに行ってきました。題して「見沼通船堀 閘門開閉実演」。実は、どんなことが行なわれるか、実際に現地で見るまでよくわかっていませんでしたが、これがなかなか興味深いものでした。そして、お江戸オフにふさわしい題材でした。
「そもそも、見沼って何?」 これは、wikipediaからお借りした地図ですが、地図上の水色の区域はかつて見沼という沼地でした。縄文時代まではこの辺りまで東京湾が入りこんでいて、その後、海岸線が後退して沼地になったそうです。いやー、埼玉にこんなに広い沼地があったとは初耳でびっくりしました。
見沼の歴史。江戸初期に関東郡代伊奈氏が見沼の南端に堤防「八丁堤」を築いて灌漑用の溜池を造成しましたが、この「見沼溜井」は十分には機能しませんでした。その後、享保年間になって、8代将軍徳川吉宗が新田開発を奨励したため、井沢弥惣兵衛為永が見沼溜井の干拓に着手し、東西に2本の用水路を開削しました。それが、現在も残る見沼代用水路東縁、西縁です。
為永はさらに、2本の代用水路とその間を流れる芝川を結ぶ運河を開削し、代用水路と江戸との間を舟で行き来できるようにしました。かつての八丁堤付近に設けられたこの運河が「通船堀」です。ふぅ、やっと出てきた、通船堀。
この通船堀の問題点は、代用水路と芝川の3mの水位差。そのままでは船が通れないので、東西の通船堀にそれぞれ2か所の関(閘門)を設けて、この関で水位を調節しながら船を上下させて通しました。そう、あのパナマ運河と同じ「閘門式運河」なのです。なるほど! この記事をまとめながら、ようやく理解できた次第。
現在の閘門は復元されたものですが、開閉の手順はかつてのまま。幅18cmの角落(かくおとし)と呼ばれる板を1枚ずつ関枠にはめて水を堰き止めます(左上)。1枚分水位が上がると、次の板を水中に落として前の板の上に取り付けます。右上の写真は下流から見たもの。関の向こう側は水位が上がっていることがわかります。これを繰り返し、次の関と同じ水位にして船を通すしくみです。残念ながら現在は、船は二の関の先には進めません。
最初は水位が低く船は岸に上がっていましたが(左上)、閘門を閉めると水位が上がって船が水に浮かびました(右上)。
水が溜まるのに結構時間がかかって(板が傷んでいて水が漏れる)、のんびりまったり江戸モードの時間進行でした。『見沼通船舟歌』なる歌や踊りも披露されました。雨が降りそうで降らない涼しい日でよかった。この前後に神社などいくつか回ったので、次の記事に続けます。
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