見沼通船堀オフ(その2)
あれから早くも2週間が経とうとしています。下書きを少しずつ書き足して、ようやく完結させました。最初の勢いでさっさと仕上げないと駄目ですね。
この日のルートは次のとおり。
東浦和駅9:20集合→附島氷川女体神社→稲荷社→水神社→通船堀→鈴木家→稲荷社→昼食「はすみ」→木曽呂の富士塚→(車)→氷川女体神社→(車)→調(つき)神社→武蔵浦和駅
見沼の畔には大小の神社が点在しています。その中の最大のものが大宮の氷川神社。東京・埼玉周辺に200以上ある氷川神社の総本社で武蔵国一宮です。この大宮氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったとする説もあります。さらに、見沼周辺には氷川女体神社と中山神社(別名:中氷川神社)があり、3社で一体の氷川神社を形成して見沼を神池「御沼」として広大な神域を有していたとも考えられています。
また、見沼には竜神伝説が数多く残されています。周辺の人々は竜神を沼の水の化身として畏れ崇めていたのでしょう。時には災いをもたらす沼に対する人々の思いがしのばれます。
以下、訪問順ではなく、街道の並び順に記します。
<附島氷川女体神社>
昼食後に訪ねた氷川女体神社(後述)の分社。見沼溜井の造成時に水没した氷川女体神社の社領の替地として与えられた土地に祀られたようです。
<稲荷社>
由緒によれば、享保年間の創立。ということは、見沼干拓による新田開発に際して、この地に住み着いた人々が勧請したと思われます。
<鈴木家>
幕府から通船堀の差配役を任されていた鈴木家の住宅。江戸時代後期の建築です。母屋の奥にある蔵などの建物もこの日は公開されていました(通常は週末のみ)。
<水神社>
見沼通船堀が開通した翌年の享保17年創建。本殿は関東大震災で全壊し、再建されました。
<稲荷社>
見沼が沼地だった時代に氷川女体神社の御船祭の御旅所が置かれていた場所。由緒には、寛政年間に京都伏見大社から稲荷大明神を分霊する許しを得た旨が記されています。
<木曽呂の富士塚>
見沼代用水と通船堀の連絡点のそばに寛政12年築造の富士塚があります。高さ5.4m、直径20m。お体めぐりの火口や胎内くぐりの穴(現在は埋没)まである本格的なものです。もちろん登山してきました。翌日、筋肉痛気味でしたよ(大汗)。
<氷川女体神社>
通船堀から車で10分程走った見沼を臨む台地にあります。主祭神は奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)。氷川神社の主祭神である須佐之男命(スサノオノミコト)の妻で、「男体社」の氷川神社に対して「女体社」というわけです。社殿は4代将軍徳川家綱の命によって建てられたもの。文化財を多く所蔵し「埼玉の正倉院」とも呼ばれているようですが、残念ながら一般公開されていません。
この神社の祭祀「御船祭」は古くは見沼で行われていましたが、沼が干拓されてからできなくなったため、池の中に丸い島を築いた祭祀場を設けて、御船祭の代わりに「磐船祭」を行なってきました(明治初めまで)。その遺跡(左上)が今も残されています。空気が重い感じがして、そそくさと引きあげました。
右上の写真は、ご神木にできた熊の顔のようなコブ。テレビ「ナニコレ珍百景」でも紹介されたそうです。地元の方がわざわざ教えてくださいました。
上記の磐船祭祀遺跡を含めて見沼氷川公園として整備されていて、その中に唱歌「案山子」の発祥の地モニュメントがあります。山田のなかの一本足のかかし…♪
<調(つき)神社>
この日最後に訪れたのは浦和の調神社。地元では「調宮(つきのみや)」と呼ばれて親しまれています。調(つき)が月と同じ音であることから、月に縁のある兎が神の使いとされて、狛犬ではなく狛兎が置かれるなど、兎の石像や彫刻、絵馬などを境内のあちこちで見つけられます。
この後、武蔵浦和まで歩いて駅でお茶をして解散しました。見沼のことを知って、通船堀の実演を見学して、面白いオフでした。大宮氷川神社にもそのうち行ってみよう!
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コメント
富士塚はそんな昔からあったのですね
本当に歴史的にお江戸な土地でした。
レポート完成おめでとうございます。
早く書いて真相を教えてくれなくちゃ~
投稿: ゆれい | 2014/09/09 19:33
>ゆれいさん
ようやくアップできてほっとしました。小さなお社をたくさん巡って、由緒書きをデジカメで撮ってきたので、ちゃんと記録してみました。
さいたまでお江戸発見……有意義な1日でした。またよろしくね!
投稿: Tompei | 2014/09/09 23:17