第49回お江戸オフ≪赤坂・虎ノ門・新橋≫その2
(こちらの続き)
その1から2か月近く経ってしまいました。この間、義母が亡くなり、何かと落ち着かない日々でしたが、先週末、四十九日を済ませてようやく一区切り。明日の鎌倉オフの前にアップしなくては、とひさしぶりに編集画面を開きました。下の古地図だけは準備してありましたよ。でも、もうすっかり忘れてる。
<栄閑院(猿寺)>
愛宕山の裏側の麓にあるこじんまりしたお寺。江戸初期に天徳寺の塔頭として創建されました。創建まもなく、この寺に逃げ込んだ猿回しの泥棒が住職に説教されて改心し巡礼に出た後、残された猿が人気者になったことから猿寺と呼ばれるようになりました。
解体新書を翻訳した杉田玄白のお墓があります。
<天徳寺>
16世紀前半に後の江戸城紅葉山に創建され、江戸城拡張に伴って当地に移転しました。古地図を見るとわかるように、江戸時代には愛宕山西側一帯を寺域とする大きな寺院で、浄土宗江戸四ヶ寺の一つでした。
鎌倉時代の建立刻銘をもつ種子(しゅじ=梵字で表わした本尊)板碑があるということで、さんざん探し回りましたが、残念ながら見つけられませんでした。
<青松寺>
昨年の春、お花見散歩で寄って以来です。以下、その時の記事を転用。
青松寺は太田道灌が創建した古刹で、徳川家康の江戸城拡張に際して旧地の麹町貝塚から現在地に移転しました。切絵図を見ると、ツインタワーを含めた愛宕グリーンヒルズ一帯が青松寺の敷地だったようです。
ちょうど鐘の時間で、心に沁みる音が小雨そぼ降る静かな境内に響いていました。
<愛宕神社>
お江戸オフで愛宕山を訪ねたのは2009年の第16回オフ以来2度目。ウンチクはその時の記事に詳しく書いたので割愛。
この日は祭礼「出世の石段祭」前で鳥居前に提灯が用意されていました。この石段を御神輿が行き来する様を見てみたい!
<浅野内匠頭終焉の地>
立て看板の説明書きは、「田村右京大夫屋鋪跡にして 元禄十四年(辛巳三月十四日)に浅野内匠頭の自刃せし所なり」。江戸城松の廊下の刃傷沙汰の後、内匠頭は綱吉の命により即日、この邸で切腹しました。
<塩竃神社>
江戸時代、仙台藩伊達家の中屋敷内にあった邸内社の名残り。領内の塩竃神社本社から分霊して祀った社を江戸市民にも参拝を許していました。
現在、神社周辺は区立塩釜公園として整備されています。都心のど真ん中にいにしえの空気が漂う異空間が残っているのが東京の面白いところです。
新橋から虎ノ門ヒルズ(中央奥の高層ビル)に至る新虎通り。幻のマッカーサー道路です。途中少し雨に降られたけれど、ゴールの新橋に着く頃には美しい夕焼けが広がりました。都心の空は狭い。
この日の宴会は、小籠包の「鼎泰豐」。そうそう、カレッタ汐留に向かう途中、日本テレビの前に「仙台藩上屋敷表門跡」の立て看板が立っていました。古地図の家紋入り松平陸奥の場所ですね。
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