第56回お江戸オフ≪神田≫ その1
昨年12月26日の忘年会オフの記事を更新できずに年を越してしまいました。これを終えないとどうにも落ち着きません。
この日は神田界隈を少し歩き、神田明神に年末のお礼参りをした後、恒例のもんじゃ忘年会で締めくくりました。
15時 JR神田駅→お玉が池跡(お玉稲荷、種痘所跡碑)→柳原土手跡碑→柳森神社→旧万世橋駅跡(マーチエキュート内)→講武神社→神田明神→銀座線末広町→新橋→17:30~ 「新橋近どう」
<神田紺屋町>
神田駅から歩き出してまもなく「神田紺屋町」の町名由来板を発見。紺屋町の名の由来は、かつてこの辺りに藍染めを手がける染物屋が軒を連ねていたことによります。右の浮世絵は、広重の江戸百の「神田紺屋町」。
神田界隈は江戸初期から職人町が形成され、同じ職種の職人たちが一か所に固まって住み、その職種を町名としていました。その多くは住所表示改正で消滅しましたが、この神田紺屋町のほか、神田北乗物町、神田鍛冶町、神田須田町などは現在も残っています。
<お玉が池跡>
江戸時代を舞台にした小説や時代劇によく出てくるお玉が池は、現在の岩本町の交差点あたりにありました。江戸初期には不忍池と同じ程の広さがあったようですが、後期には徐々に埋め立てられて宅地化され、幕末にはすでに池はなかったとのこと。
お玉が池の名前の由来は、池の近くに住む「お玉」という娘が二人の男性からの求愛に悩んで池に身投げしたことから。お玉の霊を慰めるために建てられたお玉稲荷が現在もあります。
お玉が池といえば、幕末に北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名ですが、同じ時代この界隈には儒学者や漢学者が多数居住し、江戸の学問の中心地でした。蘭方医による種痘館「お玉ヶ池種痘所」も安政5年(1858)この地に創設されました。
(左上から順に)
お玉ヶ池跡の碑
お玉ヶ池種痘所跡地(東大医学部発祥の地)
お玉ヶ池種痘所記念碑
お玉稲荷
(玄武館跡の碑は現在工事中で撤去中)
<柳原土手跡>
万世橋から浅草橋に至る神田川南岸には江戸時代、柳を植えた柳原土手と呼ばれる土手があり、よしず張りの古着屋や古道具屋が並んでいました。右の写真は、神田川に架かる和泉橋から上流を撮ったもの。左側がかつての柳原土手。
柳森神社に向かう途中の柳原通りには戦前の看板建築の商店が今も残っています。
<柳森神社>
室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして現在の佐久間町一帯に多くの柳を植え、鎮守として祀ったのが始まり。万治2年(1659)の神田川掘割の際に現在地に移りました。新橋の烏森神社、日本橋七福神の椙森神社とともに、江戸三森の一社と言われました。
上の写真は柳原通りの道路越しに撮った写真ですが、神田川に向かって石段を下りた低地に境内があります。こじんまりした境内には本殿のほか、金比羅宮、福寿社、力石などがごちゃごちゃ配置されています。
福寿社(右端の写真)には、5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が信仰していた福寿神(おたぬき様)の像が祀られています。「たぬき=他を抜きんでる」ことから立身出世のご利益を求めて、大奥で崇拝されていたようです。明治に入ってこちらに合祀されました。
小さい富士塚があったらしい。見逃しました。力石や猫はしっかりスマホに収めたのに。
長くなったので、後半は次の記事へ。
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コメント
昔懐かしい家並みですね~。参加できなくて残念でした。
投稿: ゆれい | 2016/01/21 10:47
〉ゆれいさん
コメントありがとうございます。気がつかず失礼しました。
都心にこういう建物が残っていることは奇跡的ですよね。お店の中も時間が止まっているみたいでしたよ。
来週はご一緒できますように!
投稿: Tompei | 2016/01/22 07:29