第3回 東海道踏破オフ≪蒲田~川崎~新子安≫ その2
(こちらの続き)
短い休憩後、ピッチを上げて先を急ぎました。
川崎宿を出てまもなく京急八丁畷駅の手前に芭蕉句碑があります。元禄7年(1694)、芭蕉が故郷伊賀への帰途、見送りの門人と別れた場所。別れを惜しんで、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句を詠みました。
右の写真は、八丁畷駅の裏にある人骨慰霊碑。江戸時代にこの辺りで人骨が多数出土したため、建てられた慰霊碑です。八丁畷とは長い直線道路を意味しています。
さらに、熊野神社、市場村一里塚(日本橋から5里)を通りすぎ、鶴見川橋を渡った頃がちょうど日没でした。ゴールまであと4キロ程。急げ急げ。
橋を渡ってすぐ鶴見橋関門旧跡碑があります。生麦事件(後述)後に川崎宿と保土ヶ谷宿の間に20ヶ所設けられた見張り番所の一つ。真ん中の写真は、咳の特効薬「苦楽丸」で知られた鶴居堂跡。鶴見の商店街に入った頃には薄暗くなってきました。
JR鶴見線の国道駅のガードをくぐると、生麦の魚河岸通りに入ります。シャッターが下りた魚屋さんの店舗が並ぶ薄暗い道筋を行くおばさんたち(笑)。奇祭「蛇も蚊も祭り」が行なわれる動念稲荷の鳥居がちょっと不気味に感じられました。
生麦という地名は、徳川二代将軍秀忠の行列がこの地を通過する際、道がぬかるんで通れなかったので、村人たちが街道脇の生麦を刈り取って道に敷いて通らせたことに由来する、とwikipediaには書いてあります。秀忠が生麦という地名を与え、村人に漁業を営む権利を与えたとのこと。いやいや、秀忠ではなく家康の入国時だ、とか、この地で取れた生貝をむき身にしたから「生むき」になった、とか、諸説あって真相はわかりませんが、興味深いので書いておきます。生麦の地にキリンビール工場があるのも面白い!
生麦といえば、生麦事件。幕末の文久2年(1862)、薩摩藩の島津久光の行列の前を騎乗の英国人リチャードソン他3名が横切ろうとしたところ、薩摩藩士に切りつけられ死傷した事件です。これがきっかけとなり薩英戦争が始まり、敗北した薩摩はやがて長州と同盟を結び、倒幕につき進んでいきました。現場に説明板があり、少し先に生麦事件碑が建っています(現在、横浜環状道路工事中のため、移設中)。
キリンビール工場の一角にある「SVB YOKOHAMA」に到着。予約の18時に無事間に合いました。ビールもお料理も美味しく、不便な場所にあるのに満席なのが納得できるビアホールでした。
食後、さらに新子安駅まで1キロ弱歩いて解散となりました。のべ歩数、24155歩。日本橋から約26.5キロ、東海道の5.4%完了。東海道歩きの面白さが少しずつ増してきました。
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