第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その2 権太坂
(こちらの続き)
権太坂といえば、箱根駅伝の往路2区の難所で選手があえぎあえぎ走る姿が目に浮かびますが、駅伝のコースは国道1号で旧東海道とは別の道です。このユニークな名称は、旅人が耳の遠い老人に坂の名前を聞いたところ、自分の名前を聞かれたと勘違いした老人が「権太」と答えたことに由来するとか、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名に由来するとか、複数の説があります。
ごく普通の住宅街を抜けて、湾曲した狭い上り坂がしばらく続きます。勾配はさほど急ではないけれど、来た道を振り返るとだいぶ上ってきたことがわかりました(右下)。
横浜横須賀道路に架かる橋(左下)を渡った先に、権太坂の標石(右下)があります。この辺りは平坦な尾根道で高校と小学校が並んでいます。
さらに行くと武蔵国と相模国の国境に出て、旧東海道は境木地蔵まで国境と重なっています。先に進む前に、逆方向に少し離れたところにある投込塚(左下)に寄りました。江戸時代、難所の権太坂で行き倒れた旅人や馬をこの辺りに葬ったようで、昭和の宅地造成の際、骨が発掘されたとのこと。旧東海道に戻って進むと、趣きがある若林家(右下)の家屋が見えてきます。ここにはかつて牡丹餅が名物の立場茶屋がありました。立場(たてば)とは街道沿いの休憩所のこと。
若林家の先には境木地蔵があり、境内には武蔵と相模の国境と定められた楠の木が立っています。境木はこの辺りの地名にもなっています。
境木地蔵の前から焼餅坂(左下)を下りました。焼餅は立場茶屋の牡丹餅に由来。その先は品濃坂となり、まもなく品濃一里塚跡(日本橋から9里)があります。切通しの坂道の両側に小高い塚がかろうじて残っており、かつての東海道を彷彿させる道筋でした。
けれども、旧街道の風情にひたる間もなく、すぐ先には高層マンション群が広がり東戸塚駅に繋がっています。その一角のイオンのフードコートにて一服しました。
(つづく)
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)
最近のコメント