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2017/01/31

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その2 権太坂

こちらの続き)

 権太坂といえば、箱根駅伝の往路2区の難所で選手があえぎあえぎ走る姿が目に浮かびますが、駅伝のコースは国道1号で旧東海道とは別の道です。このユニークな名称は、旅人が耳の遠い老人に坂の名前を聞いたところ、自分の名前を聞かれたと勘違いした老人が「権太」と答えたことに由来するとか、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名に由来するとか、複数の説があります。

 ごく普通の住宅街を抜けて、湾曲した狭い上り坂がしばらく続きます。勾配はさほど急ではないけれど、来た道を振り返るとだいぶ上ってきたことがわかりました(右下)。

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 横浜横須賀道路に架かる橋(左下)を渡った先に、権太坂の標石(右下)があります。この辺りは平坦な尾根道で高校と小学校が並んでいます。

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 さらに行くと武蔵国と相模国の国境に出て、旧東海道は境木地蔵まで国境と重なっています。先に進む前に、逆方向に少し離れたところにある投込塚(左下)に寄りました。江戸時代、難所の権太坂で行き倒れた旅人や馬をこの辺りに葬ったようで、昭和の宅地造成の際、骨が発掘されたとのこと。旧東海道に戻って進むと、趣きがある若林家(右下)の家屋が見えてきます。ここにはかつて牡丹餅が名物の立場茶屋がありました。立場(たてば)とは街道沿いの休憩所のこと。

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 若林家の先には境木地蔵があり、境内には武蔵と相模の国境と定められた楠の木が立っています。境木はこの辺りの地名にもなっています。

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 境木地蔵の前から焼餅坂(左下)を下りました。焼餅は立場茶屋の牡丹餅に由来。その先は品濃坂となり、まもなく品濃一里塚跡(日本橋から9里)があります。切通しの坂道の両側に小高い塚がかろうじて残っており、かつての東海道を彷彿させる道筋でした。

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 けれども、旧街道の風情にひたる間もなく、すぐ先には高層マンション群が広がり東戸塚駅に繋がっています。その一角のイオンのフードコートにて一服しました。

つづく


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2017/01/26

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その1

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  広重「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷(新町橋)」

 2016年11月21日。この日は保土ヶ谷駅集合でしたが、私は少し手前の相鉄線「天王町」駅から歩いて、歩いてない部分を多少補いました。

相鉄「天王町」駅→JR「保土ヶ谷」駅11:30集合→(権太坂)→休憩「ケンタッキー 東戸塚イオン」→宴会:戸塚「はなの舞」→戸塚駅

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 天王町駅から旧東海道を少し戻って橘樹神社からスタート。歩き始めるとまもなく帷子(かたびら)橋(左上)を渡りますが、この橋こそ広重の浮世絵で描かれた新町橋の現在の姿で、昭和39年に帷子川が付け替えられるまでは今の駅前公園側にありました。

20161112_1751_2 保土ヶ谷駅で集合後、駅前商店街を進みましたが、保土ヶ谷宿もご多分にもれず当時の面影はまったくありません。何の変哲もない道路に○○跡の立て看板があるのみ。
(左から順に)
 助郷会所跡
 問屋場跡
 高札場跡
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 さらに進むと、ようやく江戸時代のものを発見しました。左下は金沢横町の道標4基。この場所は金沢・浦賀への追分に当たります。右下は本陣跡に残る本陣門。保土ヶ谷宿の本陣は北条家の家臣苅部家の子孫が代々務めました。

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 本陣の付近には3軒の脇本陣がありましたが、いずれも看板のみ。旅籠屋本金子屋跡の家屋はいかにも昔の旅籠屋風ですが、これは明治の建築です。

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 帷子川沿いに出たあたりに保土ヶ谷の一里塚(日本橋より8里)と上方見付の跡地があります。宿場の出入口には見付という土手のような構造物が設けられていて、江戸寄りを江戸見付、京寄りを上方見付といいました。右下は川の対岸に見える外川神社。

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 樹源寺、稲荷神社を通り過ぎ、いよいよ権太坂を上ります。

つづく

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2017/01/20

東海道踏破オフ (jt.1) 神奈川宿

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   広重「東海道五拾三次之内 神奈川(臺之景)」

 昨年は数えるほどしか更新しませんでしたが、今年もそんなペースで細々続けたいと思います。昨年内に更新できなかった記事がいくつかありまして、今回は3か月程前の東海道歩きの記録(苦笑)。せめて東海道の記録と旅行記ぐらいは残しておきたい。

 2016年10月23日。珍しく日曜日にぶんぶんさんと二人で神奈川宿を歩きました。まず、この記事のタイトルの(jt.1)とは何ぞや、ですが、これはjoint(繋ぎめ)の略。我々の東海道踏破計画は、みんなで歩くオフのほか、メンバーの誰かが歩いて繋いでいく形で進めていきますが、オフ以外をjointと呼ぶことにしました。ちなみに、本来の(jt.1)は桜桃さんとゆれいさんが新子安から保土ヶ谷まで歩いてくれたので、この日は見どころが多い神奈川宿だけ歩きに行きました。

京急「神奈川新町」駅11:00集合→神奈川宿散策→横浜にてランチ「THE RIGOLETTO OCEAN CLUB」

 神奈川宿は神奈川湊を持つ宿場として賑わい、幕末の黒船来航後、横浜が開港されるまで諸外国の公使館や宿舎が置かれて外交の舞台となりました。以下は、かつて公使館などが置かれていたお寺。滝の川をはさんだ宿場の中心付近に点在しています。

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(左上から順に)
①成仏寺(アメリカ宣教師ヘボンの宿舎跡)
②慶運寺(フランス領事館跡)
③浄瀧寺(イギリス領事館跡)
④宗興寺(ヘボンの施療所跡)
⑤甚行寺(フランス公使館跡)
⑥本覚寺(アメリカ領事館跡)

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 神奈川宿の本陣は、滝の川に架かる滝の橋をはさんで東に神奈川本陣、西に青木本陣がありました。当時は左下の説明板の絵図のような様子でしたが、現在は真ん中の状況。滝の川だけ昔のままです。

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 日本橋から品川、川崎とほぼ平坦な道を歩いてきましたが、第一京浜から宮前商店街(宮前の宮は洲崎神社、左下)を通り抜け、JRの線路に架かる青木橋を越えるとなだらかな上り坂が始まります。上記の⑥本覚寺(中央)はその入口の高台にあり、門前からの見晴らしがよい。坂道に入ってすぐ神奈川の一里塚(日本橋より7里)がありました。

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 広重が描いた神奈川宿は、その上り坂を少し入ったあたりになります。臺之景の臺は台の旧字で台町の意味。台町は海沿いの景勝地で多くの茶屋が軒を連ねていました。浮世絵に描かれた「さくらや」という茶屋が幕末に「田中家」と名前を変え、現在も同じ場所で営業しています(左下の写真)。龍馬の妻のおりょうさんが龍馬亡き後、ここで働いていたらしい。

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 田中家から少し行ったところに神奈川関門跡碑(上中央)が建っています。開国後、幕府が警備強化のために設けた関門の一つ。この日最後の訪問場所は勧行寺。天然理心流の開祖・近藤内藏之助の墓(右上)がありました。新選組局長の近藤勇は4代目に当たります。

 この後、横浜駅の近くでランチをして解散しました。神奈川宿だけなのでたいして歩かないと高をくくっていましたが、起伏のある道を3時間近く歩いて思ったよりくたびれました。iphoneのヘルスケアを調べたら、のべ20284歩、階段21階分!

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2017/01/10

武蔵野吉祥七福神めぐり

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 2017年が明けて早10日。今更ではありますが、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 2010年に始めた七福神めぐりも今年で8年目。2か所巡った年もあるので、今回が10か所目になります。今年は7日に夫の実家から程近い武蔵野吉祥七福神を巡ってきました。ちなみに、武蔵野七福神というのは埼玉県にありまして、こちらは吉祥寺の吉祥が付きます。

Image1 この武蔵野吉祥七福神めぐりは地元商工会議所が主催するイベント色の高い七福神めぐりで、紙袋入り色紙セット(2000円)には、色紙のほか、バス無料乗車券、手ぬぐい、地粉うどんが入っています。6か所の寺社のうち、2つはやや遠いので、1月1日から7日まで七福神めぐり用の特別バスが運行していて、このバスを利用できるというわけ。七福神めぐりは歩いてこそと思いつつ、3回利用してしまいました。この日ののべ歩数11227歩。

井の頭線「井の頭公園」駅→①井の頭弁財天<大盛寺>⇒②杵築大社(恵比寿神)⇒③延命寺(寿老人、毘沙門天)⇒④大法禅寺(福禄寿)→⑤武蔵野八幡宮(大国様)→⑥安養寺(布袋尊)→「吉祥寺」駅
(⇒はバス利用)

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①井の頭弁財天<大盛寺>

20170107_170110_0014_2 井の頭公園の中にある弁財天。詳しいウンチクはこちらの記事へ。昔の記事を読むと、「へぇ、そうなんだ」と新鮮な気持ちで読めるほど忘れています。

 余談ながら、この日、井の頭公園はサイホーンの巣でした(笑)。

②杵築大社(恵比寿神)

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 杵築大社(きずきたいしゃ)は出雲大社の旧名。この杵築大社は、江戸初期に出雲の松江藩初代藩主・松平直正が当所を御用屋敷と定めたのが始まりとされています。高さ10mの富士塚があるから見ようと思っていたのに、すっかり忘れてしまいました。

③延命寺(寿老人、毘沙門天)

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 寛文10年(1670)、関前村の開村にあたり、神仏習合のもと、鎮守八幡神社として造立され、明治維新の神仏分離令により、延命寺と関前八幡神社(隣接)に分離されました。

④大法禅寺(福禄寿)

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 寛永10年(1634)、江戸麻布桜田町(現・六本木)に開創され、昭和7年に現地に移転しました。吉祥寺の繁華街から少し入った住宅街の中にあります。

⑤武蔵野八幡宮(大国様)

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 延暦8年(789)、坂上田村麻呂が江戸水道橋付近に創建したと伝えられます。江戸初期、水道橋付近にあった吉祥寺という名のお寺とその門前町が大火で焼失し、吉祥寺は駒込に移転(訪問時の記事)、住民は武蔵野の地に移住させられ、そこを「吉祥寺村」と名付けました。それが吉祥寺という地名の由来です。移住に際して八幡社を遷座し、吉祥寺村の鎮守として祀ったのがこの武蔵野八幡宮の始まりです。

⑥安養寺(布袋尊)

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 武蔵野八幡宮付近にはお寺が多く、安養寺、光専寺、蓮乗寺、月窓寺を総称して「四軒寺」と呼ばれています。この安養寺の開山は寛永元年(1624)ということなので、吉祥寺村の開村以前からあったようです。


 そうそう、色紙の中央の金文字、これは当たりなんですって。普通のは黒い墨字ね。賞品の入浴剤1個はともかく、酉の字が金色で幸先いい! 年女の1年、穏やかな日々でありますように。


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