2017/03/07

第60回お江戸オフ≪深川≫ その2

こちらの続き)


<津波警告の碑(平久橋詰)>

20161210_170110_0011 説明板によると以下のとおり。「寛政3年9月に深川洲崎一帯に高潮が襲来し、多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地とし、東西の端に波除碑を建てた」。石碑はほとんど原形をとどめていません。


<洲崎神社>

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 このあたりは元禄時代の埋立てによってできた地で、その海岸の突端に弁天社が祀られたのがこの神社の始まり。当時は富士山、房総、筑波山が見える景勝地で、料亭が並ぶ行楽地でした。 右の写真は、上記の波除碑の片われ。

 この洲崎弁天の北側一帯に幕府が定めた材木置場があり、堀割に囲まれた造成地には材木問屋の邸宅や庭園が並んでいました。これが木場という地名の由来です。下の浮世絵は、広重の江戸百「深川木場」と「深川洲崎十万坪」。深川十万坪は享保年間に埋立てられた新田で、木場の東側に当たります。

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 その後1969年に貯木場は荒川の河口に設けられた新木場に移転し、木場の地名だけが残されました。跡地は埋立てられて木場公園などになっています。一方、洲崎地区には明治時代に根津より遊郭が移され、昭和半ばまで吉原と並ぶ遊郭として賑わっていたことを書き加えておきます。

 かつての堀割の多くは埋め立てられましたが、深川地区は現在も大横川、古石場川など川に囲まれて橋の多い土地で、昔の面影がそこはかとなく残っているような気がしました。

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<繁栄稲荷>

20161210_170110_0004 大丸の創業者である呉服商・下村彦右衛門正啓は寛保3年(1743)に江戸店を開店後、宝暦7年から木場に別荘を所有していました。その一画に伏見稲荷を勧請して祀り、繁栄稲荷と称したのがこの神社の起源です。明治末に一旦閉鎖されましたが、昭和35年に社殿を当地に戻して再建されました。


 この後、地下鉄で内幸町に出て、「近どう」にて恒例のもんじゃ忘年会となりました。楽しく飲み食いし、おおいに盛り上がったことは言うまでもありません。東海道を歩き始めて、大勢で宴会をする機会が少なくなってしまい残念ですが、東海道踏破の目標のためには仕方ないですね。今後もたまにはこうして都内で宴会をする機会を設けたいと思いました。

 2ヵ月以上前の記録なので簡単に終わらせるつもりでしたが、書き始めたら深川の歴史が興味深くかなり長い記事になりました。やっぱり江戸は面白い!

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2017/02/28

第60回お江戸オフ≪深川≫ その1

 まもなく3月になるというのに、2016年の記録が終わっていません。

 年末のオフは東海道には出かけず、東京を軽く歩いた後、恒例のもんじゃ忘年会になりました。ひさびさにお江戸オフの復活です。2016年12月10日、北風が強く寒い1日でした。

 ちなみに、このブログに第59回オフの記録がないのは、私は途中参加で記事を書いていないため。「お江戸オフ記録帳」のこちらの記事に記録してあります。

 東京メトロ東西線「門前仲町」14時集合→富岡八幡宮→三十三間堂跡碑→深川不動尊→黒船稲荷(鶴屋南北住居跡)→住吉神社→津波警告の碑(平久橋詰)→(深川ギャザリアでお茶)→洲崎神社→繁栄稲荷→「木場」駅⇒「内幸町」駅→忘年会:「近どう 新橋店」17時~
(このコースは元々、雨天で流れた新年会オフ用のもの)

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<富岡八幡宮>

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 お江戸オフで富岡八幡宮を訪ねたのは第1回第37回に続いて3回目。深川七福神めぐりでも参拝しているので、もうおなじみの場所です。正面の鳥居と伊能忠敬の像の写真はブログ初掲載。江戸時代の測量家・伊能忠敬は深川黒江町(現・門前仲町)に住み、測量旅行の旅立ちの際には必ず富岡八幡を参拝していたことから、平成13年にこの像が建てられました。

20161210_170110_0017 富岡八幡の境内にある八幡橋。元々、楓川の弾正橋として架けられた国産第一号の都内最古の鉄橋。弾正橋が廃橋となり、ここに移設されました。




<三十三間堂跡碑>

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 江戸時代、富岡八幡宮の東側に、京都の三十三間堂を模した三十三間堂がありました(古地図参照)。規模も本家と同じ、南北66間(約120m)、東西4間(約7m)あり、通し矢が行なわれました。明治初期に廃寺となり破却。右の浮世絵は、広重「江戸百 深川三十三間堂」。

 跡地の碑がなかなか見つからずにうろうろしました。


<深川不動尊>

20161210_170110_0016 何度も訪れているのでウンチクは割愛。






<黒船稲荷(鶴屋南北住居跡)>

20161210_170110_0014 黒船稲荷は、浅草黒船町から移り住んだ住民によって建立された神社。『東海道四谷怪談』などの作者・四世鶴屋南北は晩年、黒船稲荷の境内に居を構え、75歳でこの場所にて亡くなりました。古地図を見ると、境内はかなり広かったようです。




<住吉神社>

20161210_170110_0013_3 江戸時代、この地の南方は海浜で、享保年間に佃島漁民に網干場の土地が与えられ深川佃町と呼ばれました。佃島の住吉神社より分霊して建てられたのがこの住吉神社です。


つづく

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2016/04/04

第58回お江戸オフ≪六義園から飛鳥山へ≫

 今年の桜はまばゆい陽の光や青い空を知らずに散ってしまうのでしょうか。3月21日に開花宣言が出た後、気温が低めの日が続いてなかなか開花が進まず、10日後の31日にようやく満開になったというのに以来ずっと曇り空が続いています。そして、今朝は冷たい雨。さほど散ってはいないものの、なんだか色あせてしまったような気がします。

 今回のお花見オフは変則的に平日の3月30日に行ないました。桜の見頃に合わせたつもりでしたが、残念ながらソメイヨシノはまだ3分咲き程度。翌日どっと咲いて満開宣言が出たんですけどね。まったくもって桜の花は難しい。こうしてやきもきさせられるところも桜の魅力かもしれません。

 JR駒込駅11時集合→六義園→昼食→染井霊園→飛鳥山公園

 一足早く満開を迎えた六義園の枝垂れ桜を愛でてから昼食。その後、ソメイヨシノの生まれ故郷の染井霊園を通って飛鳥山まで歩きました。

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 枝垂れ桜はまさに満開。高さ13メートル、幅17メートルのこの枝垂れ桜をかつての主の柳沢吉保や岩崎弥太郎も愛でたのかと思いきや、戦後に植えられて樹齢約60年なんですって! 私のトシとあまり変わらないとはびっくりです。お花見客も多さにも驚きましたが、都内随一といわれるのが納得でき、手を合わせたくなるような神々しい美しさでした。背景が青空でないことがかえずがえすも残念。

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 昼食後、ソメイヨシノが生まれた染井の地を通り抜けました。ソメイヨシノはエドヒガンザクラとオオシマザクラの交配で生まれた園芸品種で、江戸から明治にかけて染井村の植木職人によって育成されました。いま咲いているソメイヨシノはほぼ全てがクローンだそうです。染井霊園の桜もちらほら咲いていましたが、曇天にちらほらでは撮影意欲がわかず、写真がありません。

Img_0953  染井霊園の近くにある本妙寺に立ち寄りました。元亀2年(1572)の開山後まもなく、家康の関東入国に伴って浜松から江戸城内に移って以来、江戸内を転々とし、明治末に現在地に移転しました。この寺が本郷にあった時代に明暦の大火(1657)の火元になったと言われ(別説あり)、境内に供養塔があります(左下)。また、遠山の金さんのモデルとして知られる遠山景元(右下)や千葉周作のお墓があります。

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 飛鳥山の桜もまだこれからでした。7年前に見た満開の桜が目に焼きついているので、これではまったく物足りない。そもそも、この日は晴れる予報だったのに……。こういう思いも宴会があれば吹き飛びますが、今回は平日のためそれもなく、とぼとぼと家路につきました。のべ19257歩。

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2016/02/01

第57回お江戸オフ≪浅草≫

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 今日から早2月。暖かく好天続きの年明けから一転、厳しい寒さが続いています。そんな中、1月最終週に今年最初のオフがありました。

 この30日は数日前から雨の予報がでており、やがて雪マークが加わり、前日には積雪の予報まで出て、たいへん気を揉みました。当日の朝、窓を開けて雪が積もってないことを確認して、ようやくオフ決行が決まった次第。とは言え、最高気温が5度にも満たない寒い1日だったので、深川を歩く予定を変更して、浅草寺に初詣の後、宴会というコンパクトなオフになりました。いま思うと、観音様に呼ばれたのかもしれません。

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 雪の予報が出たので、江戸百「浅草金竜山」のような雪景色の浅草寺を見られるかも、と少し期待したんですが……。ま、浅草でこの位積もれば、交通に影響が出そうなので、オフはできなかったでしょうね。

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 年の始めのオフからお天気にやきもきし、予定変更を余儀なくされたのは運気がよくないせいかと、私としては珍しくおみくじを引いてみました。44番という嫌な感じ(笑)の番号でしたが「吉」。以前、このメンバーの過半数が「凶」を引いたことを思うと、「凶」は1枚で上々の結果でした。

 浅草寺境内の浅草神社(三社さま)にもお参りしました。

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 新年会は待望の「駒形どぜう」。どじょう鍋をこのメンバーで囲んでみたかったんです! どぜう鍋、柳川、どぜう唐揚げ、どぜう骨せんべい、くじら竜田揚げ、玉子焼、お茶漬け、などなど、堪能しました。

 今年も元気にあちこち歩いて、あれこれ飲み食いして、お江戸を極めたい!

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2016/01/26

第56回お江戸オフ≪神田≫ その2

こちらの続き)


<万世橋>

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 万世橋は神田川に架かる橋の1つ。秋葉原に近いので、爆買いツアーの観光バスがひっきりなしに行き来していました。神田川沿いのJR中央本線の線路下には2013年に「マーチエキュート神田万世橋」という商業施設がオープンしました。煉瓦造りの高架橋アーチを利用した洒落た空間が昌平橋に向かって続いています。

 ここには2006年まで交通博物館がありました。私も小学生時代に見学した記憶があります。交通博物館が開業したのは昭和11年(1936)。昭和18年に中央本線の万世橋駅が廃止されるまでは駅に併設されていました。

Img_0731 万世橋駅は明治45年(1912)、甲武鉄道のターミナル駅として開業しました。後に東京駅を設計した辰野金吾による赤煉瓦造りの豪華な駅舎で、駅前には複数の系統の市電が走り、銀座と並ぶほどの繁華街だったようです。しかし鉄道が延長され、7年後に東京駅が開業するとターミナル駅の役目は終わり、さらにその後、神田駅と秋葉原駅が新設されて乗客数は急減していき、やがて廃止に至りました。右の写真は、マーチエキュート内に展示されている旧万世橋駅舎のジオラマ。この駅舎は関東大震災で焼失しました。

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Photo_2 マーチエキュート、交通博物館、万世橋駅とさかのぼり、さらに昔、江戸時代にはこの場所に江戸城外郭門の1つ「筋違御門」があり、江戸城から上野寛永寺に通じる御成道が通っていました。門の内側には火除地が設けられ、道が八方向に通じるので「八つ小路」と呼ばれていました。

 右の浮世絵は、広重の江戸百の「筋違内八ツ小路」。筋違門は右手前方向で絵にはなく、堤のそばに立つ小屋は辻番所で、その奥に昌平橋が架かっています。右奥の小高い丘の中腹に神田明神のお社が見えます。

Photo_3 もう1枚、江戸百から「昌平橋聖堂神田川」。右下に昌平橋が少し見えています。手前の堤と向こう側の坂道が誇張されています。白壁の中に湯島聖堂(昌平坂学問所)があります。

 私たち一行もこの昌平橋を渡り、神田明神に向かいました。





<講武稲荷>

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 秋葉原の電気街の裏手に講武稲荷の小さなお社があります。由緒案内板によると、安政4年(1857)の鎮座。この土地には幕末に幕府が設置した講武所の町屋敷があったので、講武稲荷と呼ばれるようになったようです。

 昌平橋の北側のこの辺りはかつて「神田旅籠町」といい、中山道や日光街道を利用する旅人用の旅籠が多くありました。

<神田明神>

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 2015年最後の訪問場所は神田明神。押し詰まった年の瀬の日没近い時間にもかかわらず、参拝客の列ができていました。「今年1年無事にお江戸オフを続けることができ、ありがとうございました。東京タワーに登り、日光に遠征し、充実した1年でした」と手を合わせました。

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 末広町駅に出るために男坂の石段(左の写真)を下りましたが、ここを通ったのは初めてのような気がします。正面から出入りしただけではこの高低差が実感できません。江戸百の「神田明神曙之景」で東側を見下ろしている構図が納得できました。

Img_0745 末広町に出る途中、「滝沢馬琴住居跡」の立て看板を発見。






Img_0746 忘年会は恒例のもんじゃ! 今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。

 と、思いきり間が抜けた記事ですが、今週末の新年会オフの前に更新できてほっとしています。さーて、今年はどこを歩きましょうか?!


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2016/01/20

第56回お江戸オフ≪神田≫ その1

 昨年12月26日の忘年会オフの記事を更新できずに年を越してしまいました。これを終えないとどうにも落ち着きません。

 この日は神田界隈を少し歩き、神田明神に年末のお礼参りをした後、恒例のもんじゃ忘年会で締めくくりました。

15時 JR神田駅→お玉が池跡(お玉稲荷、種痘所跡碑)→柳原土手跡碑→柳森神社→旧万世橋駅跡(マーチエキュート内)→講武神社→神田明神→銀座線末広町→新橋→17:30~ 「新橋近どう」


<神田紺屋町>

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 神田駅から歩き出してまもなく「神田紺屋町」の町名由来板を発見。紺屋町の名の由来は、かつてこの辺りに藍染めを手がける染物屋が軒を連ねていたことによります。右の浮世絵は、広重の江戸百の「神田紺屋町」。

 神田界隈は江戸初期から職人町が形成され、同じ職種の職人たちが一か所に固まって住み、その職種を町名としていました。その多くは住所表示改正で消滅しましたが、この神田紺屋町のほか、神田北乗物町、神田鍛冶町、神田須田町などは現在も残っています。


<お玉が池跡>

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 江戸時代を舞台にした小説や時代劇によく出てくるお玉が池は、現在の岩本町の交差点あたりにありました。江戸初期には不忍池と同じ程の広さがあったようですが、後期には徐々に埋め立てられて宅地化され、幕末にはすでに池はなかったとのこと。

 お玉が池の名前の由来は、池の近くに住む「お玉」という娘が二人の男性からの求愛に悩んで池に身投げしたことから。お玉の霊を慰めるために建てられたお玉稲荷が現在もあります。

 お玉が池といえば、幕末に北辰一刀流の道場「玄武館」があった場所として有名ですが、同じ時代この界隈には儒学者や漢学者が多数居住し、江戸の学問の中心地でした。蘭方医による種痘館「お玉ヶ池種痘所」も安政5年(1858)この地に創設されました。

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(左上から順に)
お玉ヶ池跡の碑
お玉ヶ池種痘所跡地(東大医学部発祥の地)
お玉ヶ池種痘所記念碑
お玉稲荷

(玄武館跡の碑は現在工事中で撤去中)

<柳原土手跡>

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 万世橋から浅草橋に至る神田川南岸には江戸時代、柳を植えた柳原土手と呼ばれる土手があり、よしず張りの古着屋や古道具屋が並んでいました。右の写真は、神田川に架かる和泉橋から上流を撮ったもの。左側がかつての柳原土手。

Img_0714_2Img_0715_2 柳森神社に向かう途中の柳原通りには戦前の看板建築の商店が今も残っています。




<柳森神社>

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 室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして現在の佐久間町一帯に多くの柳を植え、鎮守として祀ったのが始まり。万治2年(1659)の神田川掘割の際に現在地に移りました。新橋の烏森神社、日本橋七福神の椙森神社とともに、江戸三森の一社と言われました。

 上の写真は柳原通りの道路越しに撮った写真ですが、神田川に向かって石段を下りた低地に境内があります。こじんまりした境内には本殿のほか、金比羅宮、福寿社、力石などがごちゃごちゃ配置されています。

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 福寿社(右端の写真)には、5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が信仰していた福寿神(おたぬき様)の像が祀られています。「たぬき=他を抜きんでる」ことから立身出世のご利益を求めて、大奥で崇拝されていたようです。明治に入ってこちらに合祀されました。

Img_0717Img_0720 小さい富士塚があったらしい。見逃しました。力石や猫はしっかりスマホに収めたのに。

 長くなったので、後半は次の記事へ。

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2015/11/09

第55回お江戸オフ≪日光≫ その5

<東照宮>

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Img_5957_2 特別祈祷ツアーは10時スタート。巫女さんの案内で境内を見学した後、拝殿の将軍着座の間で特別祈祷を受けます。

 まず始めに、五重塔内部の心柱を見学しました。現在の五重塔は最初の塔の焼失後、文政元年(1818)に再建されたもの。塔を貫く心柱は懸垂式で四重から吊り下げられて浮いています。この心柱は免震機能も果たしていて、スカイツリーの制振システムにも応用されたそうです。

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 左の写真は、表門を入ってすぐの上神庫。右は、陽明門の左手奥の薬師堂あたり。

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 陽明門(左)も拝殿(右)も修理中。最初の写真の唐門は修理が終わってぴかぴかでした。この平成の大修理は平成36年まで続き、陽明門、本殿、拝殿などの修理は平成31年までに終わる予定です。東京オリンピックの年には美しい陽明門を見られますね。

 そしていよいよ、特別祈祷。将軍着座の間とは歴代将軍が本殿参拝の前に控える部屋で、将軍は天井に葵の紋がある位置に座ったそうです。特別祈祷ではツアー一行20数名のうち1人だけがこの位置に座り、玉串を奉納することができます。なんとそのお役目を我らが代表ぶんぶんさんが行ないました。特別のなかの特別! 御利益がありそうです。

Img_5978 ツアーに奥宮参拝が含まれてなく、奥宮まで行かれなかったことが最大の心残りです。薬師堂(家康の本地仏は薬師如来)の鳴龍も見なかったし。効率はよいけれど自由がないのがツアーというもの。今回はこれでよかったけれど、修理が終わったらオフシーズンにゆっくり回りたいと思います。


<輪王寺>

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 輪王寺の三仏堂も修理中。右の写真は工事用の覆いに描かれた絵です。修理が完了した千手観音を近くで拝んだり、工事の様子を回廊から眺めたり、工事中ならでは参拝ができました。説明してくださったお坊さんのお話も面白かった。寺社を修理しながら維持していくことはお金がかかるせいか、この輪王寺も東照宮も、前日訪ねた中禅寺も「ここでしか買えない」お守りセールスが盛んでした。

 ちなみに、輪王寺の三仏とは千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音で日光三社権現(日光三山)の本地仏です。仏が神の形を取って仮に現れたとする神仏習合の考え方で、千手観音が男体山の形で現れたということになります。

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 回遊式庭園「逍遥園」の紅葉がちょうど見頃でした。日光の紅葉を青空をバックに見たい、という願いがかないました。この後、宿に戻って荷物を取って日光駅まで歩きました。24日10185歩、25日18911歩。

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 日光オフの記事を仕上げてオフの全行程が終わりました。日光に行かれて本当によかった!

 


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第55回お江戸オフ≪日光≫ その4

 日光2日目のメインイベントは東照宮での特別祈祷。お江戸オフ初のお泊り企画の目的地を日光に決めたのは、江戸幕府を開き江戸の街を作った東照大権現こと徳川家康を祀った東照宮を参拝するためでした(距離的にもちょうどよいしね)。徳川家康を神として祀ってから400年目の四百年式年にあたる今年行かれたのも何かのご縁かも。

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 日光山内は1999年に世界遺産に登録されましたが、その範囲は東照宮、二荒山神社、輪王寺の建物群とそれを取り巻く遺跡すべてが含まれます。そもそも日光は男体山など日光三山を御神体とした山岳信仰の霊場で神仏習合の地でしたが、明治の神仏分離令以後、二荒山神社と輪王寺に分離されました。日光の開山は奈良時代の僧、勝道上人が輪王寺の起源となる四本龍寺を開いたことに始まります。

 徳川家康が死去したのは1616年。遺言により翌年、久能山から日光に改葬されて社殿が造られました。現在のような壮麗な社殿に建て替えられたのは1630年代、孫の徳川家光によります。その家光も遺言により東照宮近くに葬らました(現在の輪王寺大猷院)。

 ウンチクはきりがないのでこの位にして……。この日は特別祈祷ツアーをはさんで、大猷院、二荒山神社、東照宮、輪王寺の順に回りました。事前にわかっていたことでしたが、東照宮の陽明門や輪王寺三仏堂、二荒山神社本殿が改修中だったのは残念! 

<輪王寺大猷院>

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 1653年に造営された徳川家光の霊廟。東照宮より小規模で色調を抑えた印象でしたが、手の込んだ華麗な装飾は徳川将軍家の威光を放っていました。東京の寛永寺と増上寺にもこの規模の霊廟があったはずで、戦災で焼失したことが今さらながら惜しまれます。四百年式年なので特別に家康の御位牌が公開されていました。

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<二荒山神社>

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 二荒山とは男体山のことで、男体山・女峰山・太郎山の日光三山を御神体として祀っています。奈良時代、勝道上人が二荒山の神を祀る祠を建てたことに始まったとされています。中禅寺湖畔に中宮祠、男体山山頂に奥宮が鎮座。

 本殿が改修中のため、御神木の写真しかなく……。一番右は縁結びの御神木。杉とナラの宿り木が1本になっています。

(2日目後半は次の記事へ)

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2015/11/04

第55回お江戸オフ≪日光≫ その3

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 その3はいきなり神橋から始めます。この神橋は二荒山神社の建造物で、奈良時代末の創建と伝えられています。江戸初期の東照宮造替により現在のような姿に造り替えられてから、神事・将軍社参・勅使参向などのときのみ使用されるようになりました。現在は渡橋料300円を払った人だけが渡れます。

Img_5899 私たちは渡りませんでしたが……。北千住と春日部から東武のスペーシアに乗り込んで日光に着いた一行は神橋に程近いレストランでランチタイム。「ついに日光にやって来たぞ」と実感しながら、ゆば弁当をしみじみ味わいました。

 宿にチェックイン後、14時にミニツアー出発。バスは途中まで思いのほかすいすい進みましたが、いろは坂はやはり渋滞していました。おまけに辺りはだんだん靄ってきて見晴らしがよくありません。けれども、1時間以上かけて中禅寺湖展望台に着いた頃にはラッキーにも雲が切れてきました。バスの運転手さんによれば、中禅寺湖まで片道4時間以上かかったこともあるそうです。

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Img_0610 ここで撮った集合写真を小さく縮小して貼っておきます。みんないい笑顔です。




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 展望台から下りてきて、中禅寺湖畔の中禅寺を参拝しました。中禅寺湖の名前の由来、中禅寺は日光を開山した勝道上人が784年に建立したお寺で、本尊は上人が彫ったと伝えられる千手観音像(通称:立木観音)。この観音様は今も地に根を張っています。現在は輪王寺の別院。

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 夕日を浴びた紅葉がきれいでした。中禅寺を出てバスで移動中、沈みゆく夕日を眺めることができました。

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 日没後になった華厳の滝はご覧の通り、薄暗くてぼんやりしていました。冷え込んできたし、水滴が飛び散って冷たい。エレベーターの営業終了の5時間近で何とか見られてよかったです。

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 帰りもまた渋滞の中、1時間程かけて宿に到着。このバスツアーは本来なら明智平や竜頭の滝も回るようですが、この日はそこまで余裕はありませんでした。この時期に4時間で中禅寺湖まで行って展望台、中禅寺、華厳の滝を見られて十分満足です。しかも、無料サービスとはありがたやありがたや。

 この後、夕食、入浴、夜の女子会とお泊りの醍醐味が続きます。部屋割は行きの電車でアミダで決定。ワイワイガヤガヤ楽しい時間を過ごすことができ、大人の修学旅行にふさわしい盛り上がりようでした。


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第55回お江戸オフ≪日光≫ その2

 11月になりました。6枚刷りのカレンダーが最後の1枚になってしまい焦ります。まずはさっさと日光オフの記事をアップしてしまおう。

 名づけて「NIKKOGOGOオフ」(55回目だから^^)のスケジュールは下記のとおり。

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*10月24日(土)

 東武線北千住発 9:42(けごん7号)
      春日部発 10:03
       ↓
      日光着  11:17

 12:00~ 昼食「あさやレストハウス」

 14:00~ ミニバスツアー(中禅寺湖、華厳の滝)

 宿泊:「ホテル春茂登」

*10月25日(日)

 10:00~ 東照宮将軍着座の間特別祈祷ツアー
          (昼食付き「ホテル清晃苑」)

 東武線日光発  15:30(きりふり294号)
    ↓
    春日部着 17:00
    北千住着 17:22

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 こう書くとなんてことのないスケジュールですが、決定に至るまで三婆幹事のLINEでは熱い議論が繰り広げられました。みんなの都合を考慮して決めた日程がたまたま紅葉のピークに重なったので、ハイシーズンに団体(当初10人参加予定)で動くにはどうしたらよいか、あれこれ検討しました。

 とくに宿の選択が一番悩ましかった。なにしろ一時は5、6か所に予約を入れてましたから(すみません)。その中から修学旅行生が泊る一番お安い「ホテル春茂登」に決めたのは、無料のミニバスツアーが付いていたから。ハイシーズンの週末に路線バスで中禅寺湖まで往復するのはきついので、中禅寺湖に行くにはこれしかないと思いました。2日目の東照宮参拝の際、荷物を預けていかれる場所にあるのも好都合でした。その春茂登はコスパ抜群でお食事も料金の割に豪華だったし、従業員の方々が親切でとても満足しました。

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 東照宮参拝を「特別祈祷ツアー」にしたのは、記念すべき日光オフにふさわしいと思ったのと、昼食の心配をしなくていいから。団体だから食事する場所を決めておかないと不安です。ハイシーズンなのでランチの予約不可のレストランもありました。

 駅から宿まで、宿から駅までは往復とも歩きました。道路が渋滞していて路線バスの時間が読めないため、歩くのが一番正確だったので。片道2キロ程、30分はかからない距離でしたが、荷物を持っての移動なので汗をかきました。雨が降っていたら無理だったかも。

 そうそう、東武線の特急券。帰りの「きりふり」は臨時特急ですが、9月の大雨の影響のせいか、なかなか発表されずはらはらしました。世界遺産の日光へのアクセスは思ったほど便利ではありません。

 今思うと、2日間の旅行のためにあれこれ準備をした数か月間は旅行そのものに負けないくらいいい思い出です。なので、ついぐだぐだと書いてしまいました。

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