第60回お江戸オフ≪深川≫ その2
(こちらの続き)
<津波警告の碑(平久橋詰)>
説明板によると以下のとおり。「寛政3年9月に深川洲崎一帯に高潮が襲来し、多数の死者、行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯を買い上げて空き地とし、東西の端に波除碑を建てた」。石碑はほとんど原形をとどめていません。
<洲崎神社>
このあたりは元禄時代の埋立てによってできた地で、その海岸の突端に弁天社が祀られたのがこの神社の始まり。当時は富士山、房総、筑波山が見える景勝地で、料亭が並ぶ行楽地でした。 右の写真は、上記の波除碑の片われ。
この洲崎弁天の北側一帯に幕府が定めた材木置場があり、堀割に囲まれた造成地には材木問屋の邸宅や庭園が並んでいました。これが木場という地名の由来です。下の浮世絵は、広重の江戸百「深川木場」と「深川洲崎十万坪」。深川十万坪は享保年間に埋立てられた新田で、木場の東側に当たります。
その後1969年に貯木場は荒川の河口に設けられた新木場に移転し、木場の地名だけが残されました。跡地は埋立てられて木場公園などになっています。一方、洲崎地区には明治時代に根津より遊郭が移され、昭和半ばまで吉原と並ぶ遊郭として賑わっていたことを書き加えておきます。
かつての堀割の多くは埋め立てられましたが、深川地区は現在も大横川、古石場川など川に囲まれて橋の多い土地で、昔の面影がそこはかとなく残っているような気がしました。
<繁栄稲荷>
大丸の創業者である呉服商・下村彦右衛門正啓は寛保3年(1743)に江戸店を開店後、宝暦7年から木場に別荘を所有していました。その一画に伏見稲荷を勧請して祀り、繁栄稲荷と称したのがこの神社の起源です。明治末に一旦閉鎖されましたが、昭和35年に社殿を当地に戻して再建されました。
この後、地下鉄で内幸町に出て、「近どう」にて恒例のもんじゃ忘年会となりました。楽しく飲み食いし、おおいに盛り上がったことは言うまでもありません。東海道を歩き始めて、大勢で宴会をする機会が少なくなってしまい残念ですが、東海道踏破の目標のためには仕方ないですね。今後もたまにはこうして都内で宴会をする機会を設けたいと思いました。
2ヵ月以上前の記録なので簡単に終わらせるつもりでしたが、書き始めたら深川の歴史が興味深くかなり長い記事になりました。やっぱり江戸は面白い!
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