2017/04/20

第5回 東海道踏破オフ≪戸塚~藤沢≫ その2

こちらの続き)

Img_1797_2Img_1800_2Img_1801_2

 戸塚宿を出てまもなく、大坂というなだらかな坂道に入ります。江戸時代はもっと急な坂で、坂の上から見晴らしがよかったらしい。この大坂には昔の松並木の一部が残されており、旧東海道の面影をほんの少ししのぶことができます。ほかに古いものといえば、庚申塔くらい(左下)。また、少し先にお軽勘平道行碑(右下)があります。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の名場面にちなんで建てられたもの。

Img_1798Img_1802

 さらに進むと右手前方に富士山が見えました。どんな時でも富士山が見えるとテンションが上がりますが、江戸時代の旅人もきっと同じ思いだったでしょうね。まもなく原宿の一里塚跡(右下)。日本橋より11里目。塚の付近に立場茶屋があったので、原宿と呼ばれるようになったそうな。我々も現代版茶屋のマックで休憩しました。

Img_1804Img_1806

 影取町の名残りの松(左下)を通りすぎ、影取の地名の由来となった池がある諏訪神社(右下)に手を合わせて先を急ぎました。

Img_1808_3Img_1811_3

 横浜市戸塚区から藤沢市に入ってまもなく、旧東海道松並木跡碑(左下)が建っています。その先から始まる遊行寺坂(別名、道場坂)の途中に遊行寺の一里塚(中)(江戸から12里目)と藤沢宿の江戸方見付跡(右下)があります。遊行寺坂は箱根駅伝の中継でお馴染みですね。

Img_1813Img_1818Img_1819

 正式名称、清浄光寺(しょうじょうこうじ)は時宗総本山。今では通称の遊行寺のほうが知られています。時宗宗祖の一遍上人は、「南無阿弥陀仏」の念仏を集団で踊りながら唱和する踊り念仏によって極楽往生に至れる、と大衆に説いて諸国を旅したので、遊行上人と呼ばれました。初代の一遍から4代目に当たる呑海が1325年に清浄光寺を開山したと言われています。

Img_1830Img_1829

Img_1823 夕暮れ時で広々とした境内にはほとんど人影もなく、樹齢700年といわれる大銀杏が静かに堂々と枝を広げていました。富士山のシルエットが夕焼けに浮かんで美しかった。

 遊行寺の門前にある「ふじさわ宿交流館」という資料館は残念ながらすでに閉館していました。境川に架かる藤沢橋の近くには江の島弁財天道標や藤沢宿の案内板がありましたが、辺りはすでに薄暗く、この日の東海道歩きはここで断念しました。次回は交流館見学から始めることにします。

Img_1832Img_1838

 この後、JR藤沢駅まで歩いて、さいか屋内の居酒屋で乾杯しました。三条大橋まで513キロ中、51キロ踏破。ようやく1割歩いたことになります。先は長いけれど、少しずつ進んでいることは確か(笑)。この日の歩数はiPhoneの機種変更で不明ですが、2万歩は超えたようです。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

第5回 東海道踏破オフ≪戸塚~藤沢≫ その1

061c003006
   広重「東海道五拾三次之内 戸塚(元町別道)」

 先週末、箱根越えをしてきました。その前にこの第5回の記事を仕上げたかったのに、まだ後編の途中を執筆中。とりあえず前編をアップして弾みをつけます。

 2017年1月21日。
JR戸塚駅 13:30集合→お茶:原宿「マクドナルド」→宴会:藤沢さいか屋「花鳥風月」

20161112_2066 この日の記録に入る前に、広重の浮世絵「戸塚」について説明しておきます。浮世絵に描かれた橋は柏尾川に架かる吉田大橋。これは前回、戸塚駅に着く前に渡った右の橋です。タイトルの「元町別道」とは、橋のたもとから分岐していた鎌倉への道のこと。浮世絵に描かれた道標には「左かまくら道」と書いてあります。

Img_1787Img_1788

 この日のスタートは戸塚駅。まず、JR東海道線上の歩行者用デッキを越えます。かつてここには「開かずの踏切」として知られる大踏切がありましたが、2014年にこのデッキが完成し、翌15年には地下車道が開通しました。デッキの下に東海道の説明板が設置されています。

Img_1790Img_1791Img_1792

 線路を越えるとまもなく「内田本陣」「脇本陣」「澤邊本陣」の跡地が続き、戸塚宿の中心部に入ります。戸塚宿は江戸から10里にあたり、1泊目の旅人や鎌倉、江ノ島の参詣客で賑わいました。『東海道中膝栗毛』の弥次・喜多も戸塚に泊っています。

Img_1794Img_1795

 八坂神社と富塚八幡宮。富塚(とみづか)八幡は戸塚の総鎮守で、境内に富属彦命(とつぎひこのみこと)の古墳があると伝えられ、これを「富塚」と呼んだことが「戸塚」の地名の由来とされています(別説あり)。

Img_1796 上方見付跡。江戸方見付から約2.2キロの距離。江戸時代と同じように、京に向かって左に松、右に楓の木が植えられています。


つづく


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/04

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その3

こちらの続き)

 東戸塚から帰るゆれいさんと別れて、三婆は先を急ぎました。すでに4時を過ぎていましたが、この日のゴール戸塚まで歩かなければなりません。福寿観音(左下)を通りすぎ、品濃坂を下りきって歩道橋(中央)を渡り、旧道(右下)に入る頃には日没が迫ってきました。

20161112_295820161112_251020161112_4968

 iphoneに収まっている次の写真はプテラとミニリュウ(笑)。小さな川のそばの住宅街を歩いている途中、レアキャラを捕まえて盛り上がったっけ。赤関橋(左下)を渡る頃には日が落ちて月が出ました。その後は往来の激しい国道一号線をひたすら進むのみ。

20161112_2090_2 20161112_2430_2

 不動坂(左下)の交差点の近くに神奈川名木百選の「益田家のモチの木」があります。暗くて確認できなかったけれど、たぶんこの木(右下)。この付近には護良親王の首洗い井戸があるというので探してみましたが、見つかりませんでした。暗くなっても歩くことはできるけれど、史跡見物は明るいうちじゃない駄目ですね。

20161112_124320161112_2965_2

 いったん国道を離れ、ふたたび戻るとまもなく戸塚宿に入ります。江戸方見付跡、一里塚跡(日本橋より10里)があり、柏尾川に架かる吉田大橋を渡って少し歩くと戸塚駅です。この辺りのことは次回のオフの記事にも書く予定。通りすがりの「はなの舞」で10里越えの祝宴となりました。

20161112_968220161112_3751_2

 Googleマップによる実測では、三条大橋まで513キロ中、約43キロ歩きました。これからはこの数字を追っていきます。この日ののべ歩数24453歩。上がった階数21階。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017/01/31

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その2 権太坂

こちらの続き)

 権太坂といえば、箱根駅伝の往路2区の難所で選手があえぎあえぎ走る姿が目に浮かびますが、駅伝のコースは国道1号で旧東海道とは別の道です。このユニークな名称は、旅人が耳の遠い老人に坂の名前を聞いたところ、自分の名前を聞かれたと勘違いした老人が「権太」と答えたことに由来するとか、坂の改修工事を手がけた藤田権左衛門の名に由来するとか、複数の説があります。

 ごく普通の住宅街を抜けて、湾曲した狭い上り坂がしばらく続きます。勾配はさほど急ではないけれど、来た道を振り返るとだいぶ上ってきたことがわかりました(右下)。

20161112_840820161112_5894

 横浜横須賀道路に架かる橋(左下)を渡った先に、権太坂の標石(右下)があります。この辺りは平坦な尾根道で高校と小学校が並んでいます。

20161112_601 20161112_4980

 さらに行くと武蔵国と相模国の国境に出て、旧東海道は境木地蔵まで国境と重なっています。先に進む前に、逆方向に少し離れたところにある投込塚(左下)に寄りました。江戸時代、難所の権太坂で行き倒れた旅人や馬をこの辺りに葬ったようで、昭和の宅地造成の際、骨が発掘されたとのこと。旧東海道に戻って進むと、趣きがある若林家(右下)の家屋が見えてきます。ここにはかつて牡丹餅が名物の立場茶屋がありました。立場(たてば)とは街道沿いの休憩所のこと。

20161112_441020161112_1235

 若林家の先には境木地蔵があり、境内には武蔵と相模の国境と定められた楠の木が立っています。境木はこの辺りの地名にもなっています。

20161112_3792_320161112_2203_320161112_3170


 境木地蔵の前から焼餅坂(左下)を下りました。焼餅は立場茶屋の牡丹餅に由来。その先は品濃坂となり、まもなく品濃一里塚跡(日本橋から9里)があります。切通しの坂道の両側に小高い塚がかろうじて残っており、かつての東海道を彷彿させる道筋でした。

20161112_114720161112_807020161112_3365


 けれども、旧街道の風情にひたる間もなく、すぐ先には高層マンション群が広がり東戸塚駅に繋がっています。その一角のイオンのフードコートにて一服しました。

つづく


| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017/01/26

第4回 東海道踏破オフ≪保土ヶ谷~戸塚≫ その1

061c003005
  広重「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷(新町橋)」

 2016年11月21日。この日は保土ヶ谷駅集合でしたが、私は少し手前の相鉄線「天王町」駅から歩いて、歩いてない部分を多少補いました。

相鉄「天王町」駅→JR「保土ヶ谷」駅11:30集合→(権太坂)→休憩「ケンタッキー 東戸塚イオン」→宴会:戸塚「はなの舞」→戸塚駅

20161112_8046_220161112_4637_2

 天王町駅から旧東海道を少し戻って橘樹神社からスタート。歩き始めるとまもなく帷子(かたびら)橋(左上)を渡りますが、この橋こそ広重の浮世絵で描かれた新町橋の現在の姿で、昭和39年に帷子川が付け替えられるまでは今の駅前公園側にありました。

20161112_1751_2 保土ヶ谷駅で集合後、駅前商店街を進みましたが、保土ヶ谷宿もご多分にもれず当時の面影はまったくありません。何の変哲もない道路に○○跡の立て看板があるのみ。
(左から順に)
 助郷会所跡
 問屋場跡
 高札場跡
20161112_652520161112_508120161112_2448

 さらに進むと、ようやく江戸時代のものを発見しました。左下は金沢横町の道標4基。この場所は金沢・浦賀への追分に当たります。右下は本陣跡に残る本陣門。保土ヶ谷宿の本陣は北条家の家臣苅部家の子孫が代々務めました。

20161112_500820161112_8063

 本陣の付近には3軒の脇本陣がありましたが、いずれも看板のみ。旅籠屋本金子屋跡の家屋はいかにも昔の旅籠屋風ですが、これは明治の建築です。

20161112_477920161112_8171_2

 帷子川沿いに出たあたりに保土ヶ谷の一里塚(日本橋より8里)と上方見付の跡地があります。宿場の出入口には見付という土手のような構造物が設けられていて、江戸寄りを江戸見付、京寄りを上方見付といいました。右下は川の対岸に見える外川神社。

20161112_954620161112_7545_2

 樹源寺、稲荷神社を通り過ぎ、いよいよ権太坂を上ります。

つづく

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2017/01/20

東海道踏破オフ (jt.1) 神奈川宿

061c003004
   広重「東海道五拾三次之内 神奈川(臺之景)」

 昨年は数えるほどしか更新しませんでしたが、今年もそんなペースで細々続けたいと思います。昨年内に更新できなかった記事がいくつかありまして、今回は3か月程前の東海道歩きの記録(苦笑)。せめて東海道の記録と旅行記ぐらいは残しておきたい。

 2016年10月23日。珍しく日曜日にぶんぶんさんと二人で神奈川宿を歩きました。まず、この記事のタイトルの(jt.1)とは何ぞや、ですが、これはjoint(繋ぎめ)の略。我々の東海道踏破計画は、みんなで歩くオフのほか、メンバーの誰かが歩いて繋いでいく形で進めていきますが、オフ以外をjointと呼ぶことにしました。ちなみに、本来の(jt.1)は桜桃さんとゆれいさんが新子安から保土ヶ谷まで歩いてくれたので、この日は見どころが多い神奈川宿だけ歩きに行きました。

京急「神奈川新町」駅11:00集合→神奈川宿散策→横浜にてランチ「THE RIGOLETTO OCEAN CLUB」

 神奈川宿は神奈川湊を持つ宿場として賑わい、幕末の黒船来航後、横浜が開港されるまで諸外国の公使館や宿舎が置かれて外交の舞台となりました。以下は、かつて公使館などが置かれていたお寺。滝の川をはさんだ宿場の中心付近に点在しています。

20161023_611120161023_9875_220161023_7058




20161023_169420161023_909320161023_2275

(左上から順に)
①成仏寺(アメリカ宣教師ヘボンの宿舎跡)
②慶運寺(フランス領事館跡)
③浄瀧寺(イギリス領事館跡)
④宗興寺(ヘボンの施療所跡)
⑤甚行寺(フランス公使館跡)
⑥本覚寺(アメリカ領事館跡)

20161023_4698

 神奈川宿の本陣は、滝の川に架かる滝の橋をはさんで東に神奈川本陣、西に青木本陣がありました。当時は左下の説明板の絵図のような様子でしたが、現在は真ん中の状況。滝の川だけ昔のままです。

20161023_803120161023_53720161023_6866




 日本橋から品川、川崎とほぼ平坦な道を歩いてきましたが、第一京浜から宮前商店街(宮前の宮は洲崎神社、左下)を通り抜け、JRの線路に架かる青木橋を越えるとなだらかな上り坂が始まります。上記の⑥本覚寺(中央)はその入口の高台にあり、門前からの見晴らしがよい。坂道に入ってすぐ神奈川の一里塚(日本橋より7里)がありました。

20161023_982020161023_271220161023_9574

 広重が描いた神奈川宿は、その上り坂を少し入ったあたりになります。臺之景の臺は台の旧字で台町の意味。台町は海沿いの景勝地で多くの茶屋が軒を連ねていました。浮世絵に描かれた「さくらや」という茶屋が幕末に「田中家」と名前を変え、現在も同じ場所で営業しています(左下の写真)。龍馬の妻のおりょうさんが龍馬亡き後、ここで働いていたらしい。

20161023_4428_220161023_9705_220161023_6714

 田中家から少し行ったところに神奈川関門跡碑(上中央)が建っています。開国後、幕府が警備強化のために設けた関門の一つ。この日最後の訪問場所は勧行寺。天然理心流の開祖・近藤内藏之助の墓(右上)がありました。新選組局長の近藤勇は4代目に当たります。

 この後、横浜駅の近くでランチをして解散しました。神奈川宿だけなのでたいして歩かないと高をくくっていましたが、起伏のある道を3時間近く歩いて思ったよりくたびれました。iphoneのヘルスケアを調べたら、のべ20284歩、階段21階分!

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2016/11/10

第3回 東海道踏破オフ≪蒲田~川崎~新子安≫ その2

こちらの続き)

 短い休憩後、ピッチを上げて先を急ぎました。

Img_1484  川崎宿を出てまもなく京急八丁畷駅の手前に芭蕉句碑があります。元禄7年(1694)、芭蕉が故郷伊賀への帰途、見送りの門人と別れた場所。別れを惜しんで、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という句を詠みました。

Img_1485 右の写真は、八丁畷駅の裏にある人骨慰霊碑。江戸時代にこの辺りで人骨が多数出土したため、建てられた慰霊碑です。八丁畷とは長い直線道路を意味しています。


Img_1487Img_1488

Img_1489 さらに、熊野神社、市場村一里塚(日本橋から5里)を通りすぎ、鶴見川橋を渡った頃がちょうど日没でした。ゴールまであと4キロ程。急げ急げ。





Img_1491Img_1492_3Img_1493_2

 橋を渡ってすぐ鶴見橋関門旧跡碑があります。生麦事件(後述)後に川崎宿と保土ヶ谷宿の間に20ヶ所設けられた見張り番所の一つ。真ん中の写真は、咳の特効薬「苦楽丸」で知られた鶴居堂跡。鶴見の商店街に入った頃には薄暗くなってきました。

Img_1494Img_1496Img_1497_2

 JR鶴見線の国道駅のガードをくぐると、生麦の魚河岸通りに入ります。シャッターが下りた魚屋さんの店舗が並ぶ薄暗い道筋を行くおばさんたち(笑)。奇祭「蛇も蚊も祭り」が行なわれる動念稲荷の鳥居がちょっと不気味に感じられました。

 生麦という地名は、徳川二代将軍秀忠の行列がこの地を通過する際、道がぬかるんで通れなかったので、村人たちが街道脇の生麦を刈り取って道に敷いて通らせたことに由来する、とwikipediaには書いてあります。秀忠が生麦という地名を与え、村人に漁業を営む権利を与えたとのこと。いやいや、秀忠ではなく家康の入国時だ、とか、この地で取れた生貝をむき身にしたから「生むき」になった、とか、諸説あって真相はわかりませんが、興味深いので書いておきます。生麦の地にキリンビール工場があるのも面白い!

Img_1499Img_1500Img_1501

 生麦といえば、生麦事件。幕末の文久2年(1862)、薩摩藩の島津久光の行列の前を騎乗の英国人リチャードソン他3名が横切ろうとしたところ、薩摩藩士に切りつけられ死傷した事件です。これがきっかけとなり薩英戦争が始まり、敗北した薩摩はやがて長州と同盟を結び、倒幕につき進んでいきました。現場に説明板があり、少し先に生麦事件碑が建っています(現在、横浜環状道路工事中のため、移設中)。

Img_1503Img_1506

 キリンビール工場の一角にある「SVB YOKOHAMA」に到着。予約の18時に無事間に合いました。ビールもお料理も美味しく、不便な場所にあるのに満席なのが納得できるビアホールでした。

 食後、さらに新子安駅まで1キロ弱歩いて解散となりました。のべ歩数、24155歩。日本橋から約26.5キロ、東海道の5.4%完了。東海道歩きの面白さが少しずつ増してきました。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016/10/31

第3回 東海道踏破オフ≪蒲田~川崎~新子安≫ その1

Hiroshige_1_ando53_stations_of_the_
   広重「東海道五拾三次之内 川崎(六郷渡舟)」

 2016年10月15日。台風と残暑の9月が終わると、いつの間にか季節が進んで秋になっていました。とはいえ、あいかわらず気温の変動が大きく、だいぶ秋めいたかと思えば、また夏日がやってくる落ち着かない日々。この日も爽やかな秋晴れというには気温が高く、日傘をさしてのスタートとなりました。

14:00京急蒲田駅集合→川崎宿→(休憩:川崎「カフェベローチェ」)→18:00宴会「SVB YOKOHAMA」キリンビール工場内 →新子安駅解散

Img_1462Img_1463Img_1465

 だだっ広く殺風景な第一京浜(左の写真)に旧東海道の面影を求めることはできませんが、道路に面した熊野神社(中央)や六郷神社(右)などの存在がかろうじて旧東海道であることを教えてくれます。今回は10キロ程歩く予定で時間に余裕がなかったため、参拝や寄り道はほとんどせずに先を急ぎました。道を間違えないようにしっかりチェックしながら。

Img_1468Img_1471

 都県境の新六郷橋を渡ると神奈川県川崎市に入ります。広重の浮世絵はこの場所を描いたもの。東海道の制定前からこの川には何度も橋が架けられたけれども、洪水のたびに流されてしまい、元禄以降は渡し船に切り替えられたそうです。

Img_1476Img_1478

 新六郷橋を渡り第一京浜の下をくぐって脇道に入ると、旧東海道の川崎宿に入ります。川崎宿は何も残っておらず、ただ○○跡解説板が点在するのみ。でも、当時と変わらぬ湾曲した片側一車線の狭い道筋が残っていることは幸いです。下の画像は、かわさき宿交流館でいただいた川崎宿マップ。

Img

Img_1474Img_1475Img_1479Img_1481


(左から順に)
①六郷の渡し跡
②奈良茶飯が名物の「万年屋」があった万年横丁と
 川崎大師に通じる大師道の分岐点
③田中本陣跡
④中の本陣跡

つづく

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2016/09/14

第2回 東海道踏破オフ≪品川~蒲田≫

02
    広重「東海道五拾三次之内 品川(日之出)」

 2016年9月3日。9月になれば少しは暑さが落ち着くかと思いきや、まだまだ暑い。雨の心配をしていたのに日差しが強くて、晴雨兼用傘を日傘にして歩き始めました。

15:00JR品川駅集合→品川宿→(休憩:大森海岸「UCCカフェ」)→京急蒲田→18:00宴会「キリンシティ」

Img_1395_2Img_1397_2

 品川駅から第一京浜を南下してまもなく、八ツ山橋の交差点から左の脇道に入ると、旧東海道品川宿の道筋が始まります。上の浮世絵の右側の崖が八ツ山。江戸時代の東海道は海沿いの道だったことがよくわかります。

 品川宿については、お江戸オフで歩いた時に詳しく書いているので、その記事をリンクしておきます。この時は大森駅から歩いたので、今回とは逆に鈴が森方面からの記録になっています。また、今年のお正月の東海七福神めぐりでもこの界隈を歩いているので、そちらもあわせて記しておきます。

Img_1398品川宿
鈴が森~鮫洲
龍馬と品川
南品川
北品川
東海七福神めぐり

 というわけで、品川宿についてはもう書き尽くしたという思いなので、今回はお気軽に歩いただけ。写真もあまり撮っていません。要は手抜きです。でも、歩いた道の写真はもっと残しておきたいと今になって思っています。

Img_1399Img_1400Img_1401

本陣跡、品川寺、鈴が森刑場跡

 旧東海道の道筋は鈴が森の先で第一京浜に合流し、後は蒲田までひたすら第一京浜を進みます。と思いこんで歩きましたが、なんてこった、途中の一部は脇道に入らなければいけなかったのです。2回目にしてもう道を間違えました。第一京浜の写真が1枚もないし、また大森に行ってこようか。教訓:道の確認は念には念を入れよ。

Img_1403Img_1405Img_1408

磐井神社、大森神社、貴菅神社

 貴菅神社は5年前の第一京浜拡幅の際、現在地に移動したとのこと。大正時代に第一京浜が造られた時に旧地から移転して以来2度目。現在、この神社の先から蒲田まで第一京浜の拡幅工事が行なわれています。

Img_1409Img_1410

 蒲田梅屋敷公園。江戸時代、和中散(道中の常備薬)を売っていた山本家が屋敷内に梅の木などを植えて茶屋を開いたことが起源。梅の名所として賑わい、将軍やシーボルトも立ち寄りました。後に明治天皇が9回行幸しています。日本橋から三里十八丁と書いた道標が復元されていました。1里=36町=約3.9キロなので、約13.7キロ。

Img_1411 梅屋敷から500m程先の京急蒲田駅が今回のゴール。ということは、のべ14.2キロ程度ですね。15キロは歩いたと思っていたのに。東海道の2.9%完了。私たちの行く道ははてしなく遠い。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

2016/09/06

第1回 東海道踏破オフ≪日本橋~品川≫

01_2
     広重「東海道五拾三次之内 日本橋(朝之景)」

 3ヵ月ぶりの更新。前の記事のお伊勢参りから4ヵ月が経過しました。リオ五輪とポケモンGOと台風の夏が過ぎ、あっという間に9月です。夏休みらしいイベントもなく、のんべんだらりと過ごした2016夏でしたが、一大チャレンジが始まったことだけは記録しておかなければなりません。

 2016年7月2日。お江戸オフ通算60回の還暦記念に(?)、一行は京を目指して日本橋を旅立ちました。新企画「東海道踏破オフ」の始まりです。旧東海道のべ492.1キロを歩くんですよ。そりゃあ、無理でしょう、って思いますよね。私も思いました。いや、今もかすかに思っています。でも歩き始めたからには、なんとか体裁を整えて(笑)ゴールの三条大橋に立ちたい! チームお江戸として襷をつないでいけば、きっと達成できる! 

15:30日本橋三越集合→福徳神社→日本橋→(休憩:大門「上島珈琲」)→品川→18:00宴会「塚田牧場」


Img_1254Img_1258



 この酔狂な企画をよりにもよって夏に始めた酔狂な私たち。多少は暑さがやわらぐ3時半に集合して、まず福徳神社にお参りし「東海道を無事に歩けますように」と手を合わせました。コレド室町の一角に真新しい社殿が建つこの神社は平安時代からこの地に鎮座しているらしい。参拝後、いよいよ日本橋を出発! ビルの電光温度計は32度を示していました。

Img_1259Img_1262

 さぞや照り返しがきついだろうと覚悟していましたが、日本橋から銀座、新橋に至る中央通りはビルの谷間になっていて思ったほど暑くはなく幸いでした。この通りはご多分にもれず、ビルの解体、新築が進んでおり、かつての面影が少しずつなくなっていきます。それを残念に思う私も、川に架かる京橋(左上は往時の欄干)や新橋を知らず、さらに昔の東海道の時代を想像しても実感がわきません。

Img_1265Img_1268_2

 この日直進した国道15号は、日本橋から新橋の交差点までを中央通り、その先、横浜市神奈川区までを第一京浜と呼びます。それにしても、日本橋、京橋跡、新橋跡(左上)、金杉橋(右上)の頭上を首都高が走っているのはなんとも邪魔ですね。4回続けてその下をくぐって、つくづく感じました。

Img_1275 高輪大木戸跡。ここから江戸の外に踏み出します。といっても、まだ墨引内、朱引内なので江戸の管轄。

 ここから少し歩いた品川駅近くの宴会会場がこの日のゴールでした。日本橋から約7キロ。暑い中、ビールを目指して頑張って歩きました。東海道の1.4%完了(爆)。単純計算であと70回は歩かないと京都に到達できません。しかも、歩く場所はどんどん遠くなる……。でも、とにかく歩き出したことが肝心! 先の読めない平成版東海道中膝栗毛にご期待ください。

 今回歩いた道の多くは今までのお江戸オフで歩いているので、参考までにそのときの記事をご紹介しておきます。

日本橋

新橋~泉岳寺

高輪大木戸跡

三田

| | コメント (4) | トラックバック (2)