お伊勢参りは前の記事までですが、旅はまだ続きます。
「伊勢から名古屋までの間で見るべきものは?」と調べたら、松阪の街が面白そうでした。小さな街で3時間もあれば主な観光スポットを回れるのも好都合です。というわけで、宇治山田から近鉄特急に乗って14時過ぎに松阪に途中下車しました。18時過ぎの名古屋行き特急を予約していたので、4時間程の滞在時間がありました。

下調べ不足のため、まず駅前の観光情報センターに駆け込み、散策マップをいただいて簡単な説明をお聞きしました。
松阪駅→三井家発祥地→松阪商人の館→本居宣長宅跡→旧長谷川邸→松坂城跡→本居宣長ノ宮→夕食「洋食屋牛銀」→松阪駅
<三井家発祥地>


三井中興の祖で、延宝元年(1673)江戸・本町に三越の前身「越後屋」を開業した三井高利の生誕の地。元和8年(1622)生まれの高利は14歳から江戸で修行、28歳で松阪に戻って金融業などで資本を蓄え、52歳で江戸に進出しました。
往時の建物は何もなく、左上の門は大正に建てられたもの。この近くに真新しい観光客用の休憩所があり、三越のライオンが鎮座していました。
<松阪商人の館>


江戸時代、商人の町として栄えた松阪には江戸店持ちの豪商が数多くいましたが、ここはその中でも筆頭格の小津家の旧家です。3代目小津長弘は承応2年(1653)に大伝馬町に紙店、元禄11年(1698)隣地に木綿店を開業しました。
現在も創業以来の場所で営業を続けています。その「小津和紙」のビルを知っているので、昔と今とが繋がり興味深かったです。三越もしかり。後述する長谷川家も含めて、ごく近所にこうした豪商の本家があるのには驚きました。
<本居宣長宅跡>


「商家の並びに本居宣長の家?!」と訝ったら、本居宣長は享保15年(1730)に上記の小津家の二男として生まれたそうです。小津家の先祖は本居家という武士で、本居宣長は途中から先祖の姓を名乗りました。京都で医学を学んだ7年間を除いて、12歳から亡くなる72歳までこの地に住み、医師をしながら、35年かけて『古事記伝』を執筆しました。
ここにあった邸宅は現在、松阪城跡に移築されています。実は見逃しました(今頃発覚)。
<旧長谷川邸>


豪商・長谷川家の邸宅。右の俯瞰写真はパンフレットから取り入れましたが、20室以上からなる主屋を取り囲むように5つの蔵が建っているのがわかります。建物だけでなく、生活道具や商業資料も良好に保存されています。蔵の千両箱を開けたら大判小判まで出てきたらしい。平成25年に長谷川家から松阪市に寄贈され、昨年から一般公開が始まりました。

歌川広重の『東都大伝馬街繁栄之図』。左手前のお店「たんもの はせ川」と書いてあるのが長谷川家の東京店です。3代目政幸が江戸に出て木綿仲買になった後、元禄15年(1702)に大伝馬町に新店を開業しました。江戸から明治にかけておおいに繁栄し、その後も会社経営が続けられましたが、2014年に解散したようです。
<松坂城跡>


松阪市だけど、松坂城。明治に地名の表記が松坂から松阪になったそうです。
天正12年(1584)近江の蒲生氏郷が南伊勢を与えられて松ヶ島城に入城し、その後、新たに松坂城を築城。城下町建設にあたり、旧領の近江商人を呼び寄せたことが「松坂商人」の始まりになりました。江戸時代になり、南伊勢は紀州藩領となって松坂城代が置かれました。
右上の写真の左側の一段高い場所が天守跡。石垣が美しく整備されて、松阪の街が一望できる気持ちのよい公園でした。城内に歴史民俗資料館と本居宣長記念館がありましたが、残念ながら見学する余裕がありませんでした。炎天下を歩いてぐったりしていたし、宿を出てから冷やししるこしか食べてなかったので、見学より食事を選んだ次第。

御城番屋敷
<本居宣長ノ宮>


本居宣長を祀った学問の神様。ご朱印には「しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山さくら花(敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花)」の歌が書いてあります。
約9時間ぶりのお食事。古い家並みが残る一画にある松坂牛の老舗「牛銀」の系列の洋食屋さんにて高級牛丼をぺろっといただきました。
この日の歩数24101歩。7時半過ぎに名古屋駅近くのホテルにチェックインするとバタンキューでした。
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